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評者◆福島亮
ふらんす、この鬩ぎあいの境域――ベイカー、アリミ、ラロンド、そして
No.3512 ・ 2021年09月18日




■本連載「ふらんす時評」も一三回目である。連載開始から一年経ったので、ここらへんで一度立ち止まって、「ふらんす時評」というタイトルについて少しだけ振り返ってみるのも面白いかもしれない。「ふらんす」というひらがな表記を選んだ時、私にとって重要だったのは、「ふらんす」という表記によって、フランス共和国という国家から多少なりとも距離を保つことだった。ひらがな書きの「ふらんす」は、朔太郎が「旅上」で歌ったあの遠い想像のどこかである。この距離をどうにか保ちたいと思った。そしてまた、この想像のどこかは、フランス語圏と呼ばれる文化の嵩が、「フランス」という一国家にとても収まるものではないことと親和性があるようにも思えた。

 タイトルに立ち返るのはこれくらいにしておくが、実は今回の内容は、ひらがな書きの「ふらんす」とかかわっている。フランス共和国には還元できない「ふらんす」の広がりを懸けて闘った者たちを以下にとりあげよう。
 七月終わり、モンテーニュの親友であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの生家があるサルラ村を訪れた。一六世紀の思想家ラ・ボエシは、『自発的隷従論』の著者として知られる。圧制者による支配の根幹には、その圧制を支えてしまう人々の自発的隷従があると論じたこの書物は、東京オリンピックという最悪の行事を下支えしてしまった日本国民にとって耳の痛い、だが読まねばならぬ書物である。が、本稿ではラ・ボエシには踏み込まない。話はサルラ村で見つけた一枚の絵葉書から始まる。
 その絵葉書には、褐色の肌をした一人のダンサーが描かれていた。ジョセフィン・ベイカーだ。一九〇六年、合衆国ミズーリ州で生まれたベイカーは、一九二五年一〇月二日、パリ、シャンゼリゼ劇場で行ったショー「ルヴュ・ネーグル」によって一躍大スターとなる。特に、アフリカの「未開」部族の踊りを模した強烈な異国趣味を放つ「ダンス・ソヴァージュ」は観客の度肝を抜いた。
 サルラ村にベイカーの絵葉書があったのは、村から遠くない位置に、ベイカーが過ごしたミランド城があるからである。ベイカーはこの城に世界中から異なる肌の色の孤児たちを集め、「虹の大家族」を作った。もっともそれも長くは続かなかった。城はたちまち資金難に陥ったのである。とはいえ、たとえ夢の実現が短い時間であったとしても、一〇代まで人種差別の激しい合衆国で過ごしたベイカーにとって、肌の色にとらわれず、世界中から子どもたちを呼び寄せるという夢が切迫したものだったことは想像に難くない。
 ベイカーにとって、人種差別への闘いとフランスは密接に関係している。なるほど、二〇年代から三〇年代のベイカーを収めた映像を今見ると、異国趣味とステレオタイプ丸出しの演出が彼女に押し付けられていることに強い抵抗を感じる。それでも、そのような演出の表皮の下で、当のベイカーは自らを取り戻すための内なる格闘に邁進してはいなかったか。事実、かつて「春の祭典」が初演されたいわくつきの劇場を縦横無尽に駆け巡るベイカーの四肢は生命力に溢れている。彼女のダンスは、単なる異国趣味に回収できるものではない。七月二〇日、早稲田大学「都市と美術研究所」でベイカーについて発表した立花英裕の言葉を借りるならば、ベイカーのダンスは「自分の体を取り戻す試み」でもあったのである。
 そして八月二二日がやってきた。この日、ベイカーのパンテオン入りが大々的に報道された。マクロン大統領が前日二一日に決定したのだという。二〇年代を代表する歌姫であった彼女は、一九三七年にフランス市民権を取得し、第二次世界大戦中はレジスタンス活動に従事した。ミズーリ州に生まれた彼女は、「海の彼方のどこか」(「二つの恋」)――ここ異郷のフランス――で、徹底して自らの自由を守り抜こうとしたのである。が、それがただフランス共和国のためだけでなかったことは、ベイカーが戦後、合衆国公民権運動に協力していることからもわかる。合祀の式典は一一月三〇日に執り行われる予定である。
 ここでパンテオンにおける女性の少なさについて一言述べておきたい。ベイカーがパンテオンに入ることで、この共和国の殿堂に六人の女性が眠ることになる。別の見方をすれば、これまで五人しか女性は合祀されてこなかったのだ。対する男性は、なんと七五名も祀られているのに、である。
 最初の女性は、化学者マルセラン・ベルテロの妻ソフィーで、一九〇七年のことだった。だがこれは夫マルセランの妻としてであり、彼女の功績を評価するものではなかった。二番目はマリー・キュリーである。彼女が殿堂に加わったのは、没後六〇年以上経った一九九五年、ミッテラン大統領の決定によるものだった。三および四番目は、二〇一五年、ジェルメーヌ・ティヨンとジュヌヴィエーヴ・ド・ゴール=アントニオーズである。レジスタンスとして活躍した二人だった。そして五番目は政治家シモーヌ・ヴェイユで、合祀は二〇一八年になされた。
 国家による賞揚は、国家による人間の選別と同義である。この点について、『女の歴史V』(藤原書店、一九九八年)編纂で知られる女性史研究者のフランソワーズ・テボーは、パンテオンが「偉人(grands Hommes)」のための建造物であることに注目する。ここで「人Homme」と呼ばれているのが「男性homme」と同じ語であることは決定的に重要である。たった五人しか女性がいないのは、「人」の枠組みから女性がながらく排除されてきたからである。そう考えると、合衆国生まれの黒人女性であるベイカーが合祀される、その歴史性も見えてくる。
 もっとも、「選別」が常に「排除」とセットであることは明白である。ベイカー合祀
を共和国の懐深さなどと考えるのはあまりに楽天的だ。あえて意地悪く解釈するならば、合衆国出身のベイカーは、フランス植民地の過去をうまく回避しつつ有色人と女性を共和国の枠内に回収する適任者とみなされたのではないか。実は、ベイカーの合祀決定の影で、殿堂入りが見送られた女性がひとりいる。二〇二〇年に亡くなった弁護士ジゼル・アリミである。フランス保護領チュニジアで生まれた彼女は、没後すぐに、フェミニストとしての活動が評価され、殿堂入りが取り沙汰された。しかし、彼女がアルジェリア独立運動、とくに民族解放戦線に加わっていたことが問題視され、合祀決定に至らなかったのである(ただし、アンヴァリッドで彼女を讃える式典が行われることが八月二三日に決まった)。フランスの外からやってきたベイカーとフランスの「内なる外」で生まれたアリミ。この二人
を分かつのは、なによりもフランス植民地の過去である。
 ここで、「フランス」ではなく、「ふらんす」の広がりを懸けて闘ったもうひとりの女性に目を向けよう。ベイカーの合祀が報道されるひと月前、七月二二日に親族に見守られながら逝去した詩人、ミシェル・ラロンドである。
 おや、と思った方もいるかもしれない。ラロンドはフランス人ではなく、フランス語公用語地域ケベックの詩人だからである。彼女は、フランスの外からこの共和国にやってきたのでもなく、また、「内なる外」からこの共和国に抵抗したわけでもない。それでも、彼女にとって、「フランス語」と呼ばれもする言語で書くことは闘いであった。この闘いに、私は「ふらんす」を見出してみたいのである。
 ラロンドは、一九三七年、ケベックのモンレアルで生まれた。早熟の彼女は、一九五七年に最初の戯曲を出版した。六〇年代には、文芸誌『リベルテ』に記事を執筆し、文学活動を本格化する。大著『ケベック文学史』(二〇〇七)をものしたミシェル・ビロンらによると、旧来「フランス系カナダ文学」とくくられてきたケベックの文学は、戦後「ケベック文学」としてのアイデンティティを主張する。とくに六〇年代、「ケベック文学」は、「静かな革命」と呼ばれる社会改革のシンボルとなった。このことは、文学、とくに詩の政治化を意味してもいた。一九六八年、投獄された活動家たちを支援するためにラロンドが書いた「スピーク・ホワイト」は、一九七〇年三月二七日に行われた「詩の夜」というイベントで聴衆を前に詩人によって朗読され、大きな反響を得た。
 スピーク・ホワイトとは何か。これを知るためには、当時のケベックにおいて、フランス語話者が英語話者に対して数の上でマイノリティーであったこと、そしてこの数の非対称性が、経済や文化に強く反映され、フランス語話者が劣位に置かれていたことを押さえておく必要がある。スピーク・ホワイト、それは英語話者がフランス語話者に投げかける侮蔑の言葉、「白人のように話せ」という言葉による打擲である。ここでいう「白人」とは肌の色を指すのではない。英語を話し、文化的にも経済的にも優位に立つ人間が、ここでいわれる「白人」なのである。それに対してフランス語を話す者たちは、劣位に置かれていた。ラロンドが支援した獄中の活動家の一人ピエール・ヴァリエールは、そのような劣位のフランス語話者たちを「アメリカの白いニグロ」と表現した。所々に英語を交えつつフランス語で書かれたラロンドの詩は、だから、二〇世紀におけるフランス語の「擁護と顕揚」の詩である。いや、正確には「フランス語」ではなく、「ケベック語」である。実際、この詩はラロンドの著作『ケベック語の擁護と顕揚』(一九七九)に収録された。一六世紀にデュ・ベレーがものした『フランス語の擁護と顕揚』を換骨奪胎しつつラロンドが訴えるのは、「ケベック」という「国」の言葉と文学を立ち上げることである。
 「スピーク・ホワイト/あなた方が話していると/その素晴らしさに聞き惚れます『失楽園』について/あるいはシェイクスピアのソネットで震えている/無名の床しい横顔について」詩はこう始まる(以下、翻訳は『ケベック詩選集』に収録された立花英裕の訳による)。「私たちは無教養な吃音の民/でも言葉の精霊に聴き入る耳をもたないわけではありません」ここで「私たち」と呼ばれているのは、「機械のすぐ傍ら」で労働し、人に雇われ、「命令」を下されるフランス語話者、「油と廃油で汚れた言葉」を口にする者たちである。
 とはいえ、優位に立つ英語と劣位に置かれたフランス語という二項対立を逆転させることがラロンドの狙いではない。フランス語はひとたび目を植民地に転ずれば(ラロンドの個体形成期が五〇、六〇年代の世界的な脱植民地化と重なっていることは強調しておきたい)、フランス語もまた数ある支配者の言語の一つではないか。
 だから詩人はこう鋭く歌う。「シェイクスピアの柔らかい言葉で/ロングフェローが話すときのように/フランス語を話しなさい純粋に残酷なまでに白く/丁度ベトナムやコンゴでのように/(…)/私たちは自由とはブラックな単語なのだと思い込んでいますから/貧窮とはニグロなのだと/血がアルジェやリトル・ロックの街路で埃にまみれているのではないかと」――詩人の言葉の迫力に加え、訳文の激しさから、引用する手に思わず力が入る。ラロンドの詩が垣間見せるのは、抑圧され、抑圧し、奪われ、奪う、鬩ぎあいの境域である。この詩において、もはやフランス語は間違っても「フランス」という一国家に収まるものではない。
 ラロンドはこの境域に何を見出そうとしているのか。彼女が歌うのは、鬩ぎあいから、それでも到来しつつある「私たち」である。詩の締めくくりはこうだ。「私たちがどう答えるか聞いてください/ウィー・アー・ドゥーイング・オール・ライト/ウィー・アー・ノット・アローン/私たちは知っているのです/私たちが一人ではないと」

 七月二二日と八月二二日。ラロンドの逝去とベイカーの合祀決定、そしてアリミの合祀棄却。ひと月の間に起こったこれら個々のできごとは、それぞれ異なった角度から次のことをはっきりと示している。読まねばならぬ言葉、聞かねばならぬ声がまだまだ「ふらんす」にはあるのだということを。そのことを私たちに教え続けてくれた人がいたことを、私は忘れはしない。
(フランス語圏文学)







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