書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆凪一木
その104 知られざる職業、ビルメンテナンス
No.3505 ・ 2021年07月24日




■先日、ショックな出来事があった。前の会社で一緒だった同僚に会ったときの会話である。
 「参ったよ。警察に職務質問されて」
 「ああ、職質って奴だろ。オレなんて、しょっちゅうだよ」
 「そういうことじゃなくてさ。自分の職種を質問されたから答えたんだよ」
 「オレはいつも答えないけどね」
 「ぼくは、真面目に答えるタイプだからね。それは良いんだけどさ。ビルメンテナンスって言ったのよ」
 彼は、ビルメンテナンス(ビル管理とも言う。通称「ビル管」)に就く前は、メーカーの工場長であった。上海に年間一〇数回行くほど中国の工場の面倒も見ていた会社の重責を担っていたやり手でもあった。見た目で言うと、その風格は私と違って、とても警察からは怪しげに映る男ではなかった。
 「だけどさ。ビルメンテナンスって何? って訊かれたんだよ。いつも職質をしている警察がだよ。警察ってさ、職業については人一倍詳しくなっているはずでしょ。知らなかったんだよね、ビル管」「ほんとかよ」
 彼が職質されたのは埼玉県の川口市という東京の隣であって、二〇二一年の一月という、ここ最近の出来事であった。昭和の話ではない。
 ビルメンテナンススタッフ(以下ビルメン)として働く人間の数は全国に一〇〇万人いる。一〇〇万人もいるのに、知られていない職業って、いったい何だろうか。インターネットの5ちゃんねるを開くと、ビルメンに関する話題は花盛りで、最も多くの人気、それも悪評という悪い意味での人気を集めているジャンルである。一九八〇年に二六万人だったものが、二〇〇九年には三〇年間で四倍の一〇五万人となる。この一〇〇万人という数字は、たとえば、二〇二〇年現在、警備員の五七万人、タクシー運転手が三〇万人、医師三三万人、歯科医師一〇万人、警察官二六万人、自衛隊員二五万人、消防署員一六万人に比べてもかなり多い人数だ。
 たとえば医師なら白衣、警官なら制服と、イメージは簡単にわく職種も多い。中学や高校の理科や物理の教師だって白衣であり、医師や歯科医師と見分けは付くのか、という人もいるだろう。警官と警備員と機動隊と自衛隊と見分けがつくのか。しかし概ね、見て分からなくとも、頭の中で、物理学者と化学者の違いはわかる。放射線技師と眼科医の違いはわかる。だが、「ビルメンとは何ぞや」。そこからまず話が始まる世界なのである。
 ビルメンテナンスは、実は大都市にしかいない特殊な職業だ。東京だけで五〇%という超一極集中型の、逆に言うと、田舎では馴染みの薄い仕事でもある。それでも、キャビンアテンダント(はじめはエア・ガール、のちにスチュワーデス、今はCA)だって、田舎にはいないのに、イメージとして知られている。
 つまりは、全くアピール度の不足した、もっと言うと、どこか後ろ暗さがあるのか、公明正大に言えない職業とも言えるのではないか。そう勘繰りたくもなるほどに、巨大な人数とネット上での多数の悪口とは裏腹に、ひっそりと隠れて佇んでいる。
 ビルの設備が相手であり、人間(泥棒や不法侵入者)を捕まえる仕事ではない。来館者やテナントを警固したり護衛したりもしない。生命や財産を守るのではなく、機械や建物といった設備の寿命を延ばし、省エネルギーを達成するのが第一の仕事だ。地味だが、映画やドラマの主人公には成り得るはずなのである。
 ビル災害は恐怖であり、パニック映画で、街の災害シーンの最注目が「都市のビルの崩れ落ちる」シーンなのだ。
 だが、そこで大活躍するのは決まって、刑事や医者、時にマフィアのボスだったりする。最も有名な映画『タワーリング・インフェルノ』では、消防隊長にスティーブ・マックイーン、ビル設計者にポール・ニューマンという二大ハリウッド・スターの競演が話題であった。ビルのオーナーがウィリアム・ホールデン。そして脇役にもう一人いた。それがO・J・シンプソン演じる中央保安室の保安係主任であった。これこそがビルメンである。ビルメンテナンススタッフは、確かに存在した、いや、するのだ。
 さて、では「警備」や「清掃」ではなく、「設備」が主役の、映画やテレビドラマはあるのか。ない。これが実に、ないのである。未だかつてない。実は、しかし、元はボイラーマンとして、その職種は知られていた。鉄道の世界だ。そして、蒸気機関車のボイラーと同時に、もう一つボイラーマンは活躍した。鎌倉時代から存在したと言われる日本独特の銭湯だ。
 銭湯は、一九六五年頃には全国で約二万二〇〇〇軒と言われている。レジャー施設として、レンタルビデオ店がピーク時に一万六〇〇〇店(八九年)、パチンコ屋がピーク時に一万八〇〇〇店(九五年)と比べると、地域でのより深い日常的存在であった。
 一九五二年に放送されたラジオドラマ『君の名は』が始まると、お風呂屋さんが空になると言われた。七〇年代からは自宅に内風呂が出来て、銭湯利用者はどんどんと減っていく。二〇一四年には、全国四三〇〇軒ほどで、このうち公営銭湯は三五〇余りとなった。
 日本で一番多くレコード(CD)を売り上げた歌手をご存知であろうか。
 若い人ならAKB48を想い浮かべるかもしれない。年配者なら美空ひばりであろう。
 日本一の売上レコード歌手。その答えは三橋美智也という男である。一九八三年には日本の歌手として三橋は、史上初めてレコードのプレス枚数が一億枚を突破し、生涯のレコード売上は一億六〇〇万枚となった。彼は一九歳のとき、「歌だけではなく違う世界も知りたい」と三味線一本を持って一九五〇年に上京した。このとき実はボイラーマンの仕事をしていたのだ。それは横浜市の網島温泉に一九四六年に開業してまもない「東京園」で、その後も二〇一五年五月まで約七〇年営業を続けた有名な温泉施設だ。このビルメンテナンス最初期の時代に三橋は、当時の花形のボイラーマンとして働いていた。ビルメン出身者最初のスターが既に存在していたというわけだ。
 話を戻すが、パニック映画にもしっかりと登場し、日本最大のレコード歌手をも生み出した業界であるのがビルメンテナンスであり、しかし一度たりともテレビドラマや映画での主役はなく、世間にも、警察にすら知られていない職業なのである。
 未だ知られぬビル管理。リアルタイムで認知されない地下職人であり、ネット上でも5ちゃんねるに潜って燻っているビルメンテナンス。
 早く人間になりたい。
(建築物管理)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約