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評者◆福島亮
デコロニアリスム?――ある言葉の暗がりについて
No.3504 ・ 2021年07月17日




■本時評第七回目で紹介した「シュルレアリスムの発明」展をようやく見ることができた(五月一九日から八月一四日まで開催予定)。一階のギャラリーに入ると、シュルレアリスムの前夜を彩るバレエ「パラード」がスクリーンに映し出され、一度見たら忘れられないあの「馬」のコスチュームも展示されている。少し進めば、フーゴ・バルの「ガジ・ベリ・ビンバ」の朗読が聞こえてくる。最後は『ナジャ』関連の展示である。ナジャによるデッサンは、トレーシングペーパーのような不透明で薄い紙になされている。この底知れぬ暗がりを抱えた透けるような薄さがどうにも印象的だった(不透明性こそが、取り憑いて離れないものの特徴だろう)。

 さて、話は急に変わるのだが、「デコロニアリスム」という言葉を聞いたことはあるだろうか。「デ」というのは「脱」を意味する接頭辞、コロニアリスムは「植民地主義」の意味だから、直訳すれば「脱植民地主義」となる。
 デコロニアリスムという言葉がフランスのメディアで頻繁に用いられるようになったのは、以下に見るように、ここ数年のことである。その意味するところは、ひとまずは、ありとあらゆるところに浸透した植民地的支配構造からの脱却を声高に主張することで、白人に対する人種的憎悪を煽り、共和国に分断をもたらす主義主張、という否定的なものである。
 ひとまずは、と断っておいたのは、実はこのデコロニアリスムという言葉が使われる際には、「人種」や「ジェンダー」といった言葉が錯綜する形で用いられており、植民地主義という語が拡大適用されて用いられているからである。
 デコロニアリスム批判の中心的論客である社会学者・哲学者ピエール=アンドレ・タギエフは、二〇二〇年に刊行した『脱植民地の欺瞞』の中で、デコロニアリスムをラディカル化したポストコロニアリスムとして位置づけている。「脱植民地」という言葉はこのラディカル化に際してレトリックとして機能し、あらゆるものが支配と被支配からなるマニ教的善悪二元論が導き出される、というのがタギエフの見立てである。この見立てを端的に象徴するのが、「アンチ白人人種主義」という表現である。これは白人に対する「逆人種差別」であるから、偽の反人種主義である、とタギエフは指摘する。
 以上がデコロニアリスムのおおまかな定義であるが、この言葉の使用をはっきりと印付けたのは、二〇一八年一一月二八日、『ル・ポワン』紙に掲載された「デコロニアリスムに反対する八〇人の知識人の声明」だろう。八〇名の中には、哲学者アラン・フィンケルクロートや歴史家ピエール・ノラなど、日本語読者にも馴染みのある名前が並んでいる。
 声明は厳しい調子で「デコロニアリスム」を批判する。まず、デコロニアリスムの信奉者たちは、「スターリン主義」を思わせる「知的テロリスム」によって、このイデオロギーを名だたる教育機関にはびこらせ、「国家による人種主義」を糾弾し、標的をみつけては「~嫌悪」というレッテルを貼って吊し上げている、と指摘する。この指摘からは、昨今のキャンセル・カルチャーや文化盗用批判などが想起されよう。また、「~嫌悪」という言い方で特に念頭に置かれているのは、本声明の余波を見る限り、ムスリム嫌悪である。声明は、このようなデコロニアリスム・イデオロギーからライシテを基盤とする共和国のモットー(自由・平等・同胞愛)と民主主義の価値を守らねばならぬ、と主張する。
 「八〇人の声明」がもたらした波紋は今現在まで続いている。声明が発せられた翌月には討論番組が組まれ、次いで『フィガロ』紙が反デコロニアリスム、反アンディジェニスム(先住民復権運動)、反ポリティカル・コレクトネス、反ジェンダー理論の記事を立て続けに掲載し、こちらは現在も継続中である。
 さらに、本連載第三回目でも扱ったサミュエル・パティ殺害事件直後、二〇二〇年一一月一日には、『ル・モンド』紙に「百人のマニフェスト」なる文章が掲載された。これは同年一〇月二二日に政治家ジャン=ミシェル・ブランケールが行った、高等教育機関において「イスラモ・ゴシスト(イスラム主義と結託したラディカル左翼)」が力を持っている、という発言を支持するものである。
 そして今年一月一三日には、『ル・ポワン』に「デコロニアリスム監視委員会」なるグループの声明文が掲載された。雰囲気を知るために、少し長めに引用しておこう。
 「我々は今日、高等教育や研究において、アイデンティティの未曾有の波に直面している。いわゆる『デコロニアリスム』や『インターセクショナリティ』の名のもと、民主主義社会へのラディカルな批判を押し付けようとする過激な運動があり、この運動は、不平等と闘っている気になっているが、個々人を『人種』や宗教、性別や『ジェンダー』に割り振ってしまっている。」
 この声明文の二ヶ月後(三月二日)に「監視委員会」が公開した言語学者ジャン・スラモヴィッチと社会学者シュムエル・トリガノの対談は、デコロニアリスム批判を、ポストモダニスムに対する批判の一部、さらにいえば、合衆国で発展した批評理論(例えば脱構築)への批判として位置づけている。だが、二人が批判する「ポストモダン」や「脱構築」の内実が曖昧であるため、ややもすればアングロサクソンに対する拒否反応ではないかと読めるものだった。
 さて、私はフランス語圏文学を研究しているのだが、この「語圏」なる接尾辞の含意の一つは、旧植民地の存在である。だから私の目には、これまで列挙してきたデコロニアリスム批判は、ポストコロニアル研究やジェンダー研究等がこれまで築き上げてきた知に対するバックラッシュであるように見えた。日本でも目につく「右傾化」と重なって見えたのである。
 だが、揺り戻しという表現では不十分である。なぜなら、八〇年代以降、フランス共和国の言論は常に揺れてきたからである。この揺れを試みに二つの水脈として考えてみよう。
 まずは制度VS自由の水脈がある。言い換えるなら、歴史認識に対する制度的介入VS表現・学問の自由をめぐるそれである。参照点となるのは、二〇〇五年一二月一三日、『リベラシオン』紙に掲載された歴史学者たちの声明文「歴史の自由」であろう。賛同した一九名の歴史学者のうち三名が、先の「八〇人の声明」にも名を連ねている(エリザベット・バダンテール、ピエール・ノラ、モナ・オズーフ)。
 「歴史の自由」の賛同者たちは、歴史をめぐる自由な言論を抑圧する制度化の目印として、三つの法律を挙げていた。すなわち、人種差別や反ユダヤ主義を禁じた一九九〇年七月一三日法(ゲソ法)、一九〇五年のアルメニア人虐殺を認めた二〇〇一年一月二九日法、そして、奴隷制を人道に対する罪と認めた二〇〇一年五月二一日法(トビラ法)である。
 この「歴史の自由」が掲載されたのが二〇〇五年に生じたパリ郊外暴動の二ヶ月後だったということは見過ごせない。この暴動こそが、第二の水脈、すなわち国家と個々人のアイデンティティ、そして両者の間に位置する中間的共同体の水脈を可視化してくれるからである。
 第二の水脈において最も目につくのはムスリムをめぐる言説であるが、その背景は当然、昨日今日のものではない。いくつかの目印を思い起こしておくならば、一九八九年に起こった「スカーフ事件」、二〇〇一年の合衆国同時多発テロに起因するイスラム脅威論の顕在化、二〇〇四年のライシテ法、そして二〇一五年のシャルリ・エブド襲撃事件であろうか。細かな出来事は枚挙にいとまがなく、今年二月一八日にはヴィダル教育相が高等教育機関に巣食うイスラモ・ゴシストの調査を行うと表明したため、大学教員らが反対活動を展開したのだが、今度はその活動を根拠に「イスラム過激派に加担する左翼教員六〇〇人のリスト」なるものがSNS上で拡散された。
 すぐに思いつく出来事を列挙するだけでも、デコロニアリスムなる言葉が二〇一八年に急に表舞台に出てきた言葉ではなく、八〇年代以降の複数の脈絡の中で醸成されてきたものであることがわかる。だから揺り戻しという表現だけでは、この脈絡が見えにくくなってしまい、不十分なのである。

 最後に私見を述べて、本稿を締めくくろう。私はデコロニアリスムという言葉に違和感を感じている。その理由は、この語があるイデオロギーを明示するための便利なラベルとして用いられており、脱植民地化や植民地という言葉が抱え込んだ具体的な名、具体的な日付がことごとく平板化され、忘却されているからである。
 デコロニアリスムという語の醸成が始まる八〇年代後半、旧フランス植民地でレトリックではない脱植民地闘争が徹底的に潰されていたことは思い出しておくべきだろう。例えばニューカレドニア。一九八八年にウベアで起こった惨劇を思い起こしてみればよい。あるいは同じ頃カリブ海で起こった独立闘争の数々を。脱植民地化をレトリックであると呼んでしまった瞬間にかき消されてしまう、あれら潰えていったものたちの名を温め直さなくてはならない。
 また、「アンチ白人人種主義」というデコロニアリスム批判の根幹に関わる発想にも原理的な問題が潜んでいる。
 この点について、「ヴィクティミザシオン(犠牲者化)」という言葉にかんする丸岡高弘の指摘は重要である。本稿でも取り上げた二人の哲学者、フィンケルクロートとタギエフが二〇〇五年に行った発言を分析しつつ、被害者化に対して別の被害者化によって対抗するのは「自己撞着的」ではないかと丸岡は指摘している(「フランスにおける反人種差別主義的ディスクールの危機」)。
 自己撞着性という観点からみるなら、「アンチ白人人種主義」批判に立脚するデコロニアリスム批判もまた、仮想敵の戦法を鏡うつしにしてなぞっているだけだ、と言えよう。この誰も幸福にならないだろう模倣の戦略は、しかし、確信犯的なものである。決定的に重要な第一著『偏見の力』(一九八八年)において、差異主義が人種主義の新たな形として右派によって利用されていることを指摘したのは、他ならぬタギエフその人だからである。
 言葉は瞬く間に論争の道具になってしまう。この速度こそが、私たちのオプセッションではないか。だから、言葉が闘争の道具になる、その一歩手前に立ち止まること。デコロニアリスムをめぐる合わせ鏡のような言論状況に抗うために、私は植民地という語が絶えず抱え続けてきた、名と日付を持つあの暗がりに、今しばらく、ゆっくりと、佇んでいたいと思うのである。
(フランス語圏文学)







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