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評者◆相馬巧
作曲からの断絶――作品の歴史と批評(1)
No.3502 ・ 2021年07月03日




■かつて音楽史記述において、作曲家を語ることと作品を語ることは同一であった。ここでは、その人物の生涯、楽譜に残された作曲技法を丹念に調べることが、作品の理解に直接に結びつくと考えられていたのだ。すなわち、作品とは、過去の偉大な作曲家の営為によって生み出されたもの、つまりはすでに「作曲されたもの」であった。
 この歴史認識が、音楽学というひとつの学問領域でのみ議論されるべき問題でないことは明らかだろう。ある音楽作品が有している歴史をいかに捉えるかという問題は、つねに現在の音楽の営みに大きな影響を及ぼすためだ。もし現在においても作曲家と作品の両者を同じ位相にあるものとみなすならば、作品とは彼らの人生、ないしはその背後にある社会を反映させる手段とみなされる。それならば、作品のうちには予め用意された本質が内包し、ここに従属することが演奏や聴取の営みの最大の責務となる。このとき音楽は、作曲家の神話によって支配されることとなる。
 1980年代の音楽学に起きたいわゆるニュー・ミュージコロジーの動向は、まさにこうした近代主義的な歴史観への問題意識から生まれたものと言えよう。この動向によって、音楽史記述にある作曲家崇拝の多くが取り払われた。それ自体は極めて重要な成果であったと言えるが、しかし音楽史がいかにして叙述されるべきかという問題に関して、解決の糸口はいまだに見つかっていないように見える。
 ニュー・ミュージコロジーを先導した代表的な研究者であるR・タラスキン(1945‐)は、2009年に『オックスフォード西洋音楽史』という、英語で全五巻、総ページ数4000にも及ぶおそろしく浩瀚な通史をひとりで書き上げた。この仕事で注目すべきは、彼が採用した独特な方法論にある。序論のなかで繰り返し述べられるように、この本では16世紀から20世紀にわたる西洋音楽の歴史が文字通り網羅的に記述される。しかしここでは、出来事の因果関係を詳細な楽曲分析(一曲で数ページに及ぶこともままある)とともに説明するため、本来対象となるであろう事象をすべて取り上げることはしない。また、様々な論争に言及する際にもタラスキン自身がいずれかの立場に与することはなく、双方の言説が成立する要因が説明される。このようにタラスキンは、文献学者としての相対主義の姿勢を全巻通して徹底的に貫き、マスター・ナラティヴないしは「大きな物語」を回避したかたちで西洋音楽の通史を描いた。
 しかしながら、このタラスキンによる仕事が近代主義的な歴史認識の乗り越えとみなし得るのかは、全くもって疑問である。つまり、タラスキンのように作曲家の神話に立脚した「大きな物語」を回避し、その周囲を旋回するように叙述を続けることと、その歴史観を否定した上でさらに新たな歴史記述の方法を構築することとは、全く異なるものであるからだ。また、なによりこの本は、音楽史を「文字によって生まれたliterate」文化に限定することを方法論として明言している。つまり、彼の叙述とは「楽譜としての作品」をめぐる歴史であり、この前提自体に、作品を「作曲されたもの」とみなす近代的な思考となんら変わらない姿勢を見て取ることができる。
 だからと言って、こうしたタラスキンの仕事を十把一絡げに批難することは、本稿の意図するところではない。むしろ、音楽芸術にとっては、こうしてタラスキンらによって精密に行われてきた文献学の成果を補完する歴史哲学の問い、そしてW・ベンヤミンやTh・W・アドルノが言うところの新たな歴史の概念を構想する「批評」の仕事が不可欠であることを主張したい。そもそも音楽とは音の連なりであり、作品とはこの音の交換の過程にこそ存在するものではないのか。だからこそ、演奏と聴取という要素を含みこんだかたちで作品を捉え、ここに新たな音楽史の概念を構想しなくてはならないだろう。
 作曲家の神話を語ることの拒絶反応から、現在の音楽学の歴史記述は相対主義へと陥らざるを得なくなっているのではないか。しかもそれは、いまだわれわれの音楽の営みに、作曲家の神話と対抗できるだけの手段を理論的に提示できていない。また、「批評」を通して構想される新たな音楽史の概念が、音楽学者たちの仕事になんらかの触発を与えられるのではないか。
 この問題に関して、間接的なかたちではあるが、今年4月に刊行された柿木伸之の『断絶からの歴史――ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社)から大きな触発を得ることができた。ここでは、ベンヤミンが語る神話的な歴史概念への批判、ならびにその単線的な歴史観に断絶をもたらすことによって、過去の総体を救済する「想起」の思想が、様々な角度から検討されている。批判版全集が出版された「歴史の概念について」を中心とした文献の精密な読解、また豊富に二次文献の参照を行う丁寧な仕事が見受けられるのに加えて、学術研究に収まらない政治的な主張にも踏み込む刺激的な著作であった。やや書評的なことを述べれば、近年の細分化するベンヤミン研究の潮流のなかで、この柿木のように、過度に論考の細部に混濁することなく、ベンヤミンの思想全体を俯瞰しながら、彼が実践的に唱えた「神政政治」への批判や「革命と救済」の可能性を改めて問おうとする姿勢は大変貴重なものであると言えよう。
 当然ながら、歴史の概念一般を論じる本書は、直接的に音楽史を論じるものではない。しかし、現在も音楽研究に多大な影響を与えているアドルノの音楽論の思考の源泉を辿るという意味で、重要な意義があることは間違いがないだろう。彼は音楽論においても、明らかにこのベンヤミンの歴史哲学を念頭にして、音楽作品の歴史の問題を思考していたのだ。
 本書の序章において、柿木は「支配階級の道具には決してなり得ない歴史の概念」こそがベンヤミンの歴史哲学において探究されたものであると述べる。それは、単線的な歴史記述が偉人たち=「勝者」の歴史を書くことに終始し、政治的イデオロギーと容易に結びつきうることへの批判であると同時に、そうした歴史を叙述する歴史家たちが、「現在の権力関係の下で接近しうる史料を操ることによって過去を表象しうる立場に安住しようとする」ことで、「正史」を物語る権力者の立場に与していることへの批判でもある。それならば、先ほどのタラスキンの相対主義的な音楽史記述もまた、権力者の立場から資料を操り、過去を表象しようとする点で、ベンヤミンの批判の対象となると言えよう。

そうして「科学の近代的な概念」に従属してしまった歴史記述において、「想起」の代わりに行われるのは、過去の「現前化」である。それはかつて起きたことを現在に投影し、過去の「偽りの生動性」をつくる。
(『断絶からの歴史』)

 それに対してベンヤミンは、過去が向こうから到来してくる「想起」という受動的な行為から歴史の概念を構築しようとした。柿木によれば、それこそが「正史」からは忘れられた死者=「敗者」たちを歴史のうちに取り戻し、われわれが他者とともに生きることへとつながる。
 では音楽史において、ここで言う「他者」とはだれに当たるのか。様々なことを想定できるだろうが、まず何と言っても過去の作曲家たちをここに挙げることができるだろう。作曲家たちは、神話の姿で描かれ讃美される「勝者」であると同時に、その神話によって歴史から自身の存在そのものが塗り消されていく「敗者」でもある。安易に作曲家という他者を表象してはならない。過去と現在のあいだに歴史的な距離という「断絶」を設け、作品のうちに残された痕跡から、「敗者」としての作曲家の姿を想起することこそが、音楽の「批評」に課せられた仕事である。
(東京大学大学院博士課程)







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