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評者◆稲賀繁美
《黒い太陽》:北米の文化土壌の葛藤が育んだ「移民混血児」の「環境藝術」――松木裕美著『イサム・ノグチの空間芸術――危機の時代のデザイン』(淡交社)から
No.3501 ・ 2021年06月26日
■できるような社会環境が整うには、イサムの生涯・半世紀におよぶ歳月が必要であり、複雑に入り組んだ地権や政治闘争、建築施工と立体造形との相克といった諸条件の衝突を乗り越えなければ、計画実現はおぼつかない。そこにはアジア系米国籍者という出自に由来する疎外や差別も加わる。
ノグチといえば「庭」gardenの印象を持つ読者も多いだろう。本書は北米の都市計画政策の変遷のなかで「プラザ」概念が変貌を遂げ、それが日本由来の「庭」といかに融合を遂げ、イサムの代表作、チェイス・マンハッタン銀行地下吹き抜けの中庭に結実したかを辿る。そこにはパリ・ユネスコ本部の庭に未経験のまま取り組んだ無謀なる試行錯誤が転生し、水面に浮かぶ渓流石の意匠は、後年の噴水群へと展開する。 著者は、加工しない自然石に「藝術」など認めない欧米価値観とのイサムの葛藤に触れる一方、水流に「彫刻」を観るイサムの(華厳的?)構想が、維持管理の面で、必ずしも幸福な結果を招いていない現状からも、目を背けない。「演ずる」舞台でもあれば、幼児の「遊び」の空間でもあるplay groundは分類不能。イサムの希望通りに完成をみることは稀であり、破損に任され、閉鎖された施設も少なくない。だが大地との接触を身体的に体験する「景観」の起伏は、人々の集い舞う祭壇でもあった。 演劇は「空っぽの空間Empty Space」(Peter Brook)に出現するが、子供たちが好んで入り込む《黒い太陽》(1969年:表紙写真)の空洞を経て、晩年のイサムが空虚な広場に託したのも、「土俵」という聖なる結節点ではなかったか? 一所不住の流動性が移民国家の原像ならば、イサムの目指した「無」の焦点は、「アメリカ性」の究極の逆説的具現だったのかも知れまい。庭を歩む皮膚感覚と、ドローンで景観を上空から移動しつつ見下ろす「離見の見」と――。彫刻家イサムが捏ねた土塊には、その両者が微小と極大とを兼ね備えて顕現する。 *評者は、ひょんな成り行きから、まったく面識もなかった著者の、パリ第八大学での博士論文審査に関わった。その審査報告については、以下をご参照いただければ幸いである。Hiromi Matsugi, La Sculpture d'espaces d'Isamu Noguchi,L'Universite Paris Ⅷ, INHA, Dec. 21 2018 https://inagashigemi.jpn.org/uploads/pdf/20200318matsugi.pdf ※松木裕美著『イサム・ノグチの空間芸術――危機の時代のデザイン』(4・21刊、A5判256頁・本体2700円・淡交社) |
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