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評者◆秋竜山
「なぜ?」は不幸に対する質問、の巻
No.3498 ・ 2021年06月05日




■ヒトは幸福の時、「なぜ? 自分は幸福であるか」を、考えないし、思いもしないものだ。ところが幸福の反対の不幸に対しては、「なぜ?」を自分に問うものである。つまり、幸福の時は、「なぜ? 私はこんなに幸せなんだろうか。なぜ? 世界一幸せなんだろうか」と、考えもしないし、思いもしないのである。なぜかというと、幸せだからである。ところが、「不幸」になると、とたんに「なぜ? 私はこのように不幸なんだろうか。私ほど世界一不幸な人間はいない。なぜ? だ」と、なってしまう。「アア……私の不幸の始まりは……」と、なる。「アア……私の幸福の始まりは……」とは、ならない。
 皆木和義『「折れない心」をつくる 菜根譚の知恵』(三笠書房知的生きかた文庫、本体六〇〇円)では、
 〈本当に物事を観察しようとする者は、心が事物と一体となって同化してしまうまで、観察し尽くす必要がある。そして初めて物事の外観や表面にとらわれない本質や真実の姿を見出すことができるのだ〉(本書より)
 「なぜ?」を考えるということは、いわゆる「禅」の精神ではなかろう。「なぜ?」を、自分自身に問うのである。自分に、「なぜ?」自分なのか。その「なぜ?」を問い続けるのだ。「なぜ? 私は私なのか、なぜ?」終わりなき繰りかえしである。「なぜ? だ、なぜ? だ」「なぜ? 私は私なのだ」「いい加減にしろ!!」と自分に叫びたくなる。だからといって終わりはない。まさに、禅とはナンセンスの世界である。子供の世界でもある。子供は毎日を「なぜ?」の中で生きているのである。「ネェ、なぜ? なの。なぜ?」を繰り返す。思い出すのは中学生の時であった。授業中、私は一番前の席で、「なぜ?」を、連発していた。先生の一言に対して、「なぜ? ですか」と、いった。これにはさすがの先生も「中学生にもなって、お前はいつまでも子供だ」と、ねをあげたように叱ったのであった。私は先生に叱られたことにショックのようなものを覚えた。なぜならば、いまだにそのことを忘れずおぼえているからだ。もちろん私は、それが事件のように思え、「なぜ?」を、口にしなくなった。子供を卒業してしまったのか。それが、よかったの悪かったのか。
 〈「なぜ?」の積み重ねが「菜根譚」の著者がいう、物事の本質や真実の姿を見抜くことにつながります。トヨタでは、「なぜ?」を五回問いかけて問題の原因を発見し、仕事の改善につなげる習慣があるそうです。〉(本書より)
 〈「菜根譚」はいまから四〇〇年ほど前の中国・明代の末期に書かれました。「前集」と「後集」あわせて三六〇ほどの短い文章から構成されており、人生をどう生きるか、そして人間力をどうやって磨くかについて書かれた中国古典です。〉(本書より)
 江戸時代に日本へ入ったという。それ以前にも日本には「なぜ?」はあったろう。時代劇風にいうと「なにゆえにだ」と、なるだろう。現代風では「どーしてなの?」と、なるだろう。「ネェ、なぜ? なの。バカみたい」と、なる。国会中継などを観ていると、野党が「なぜ?」を、たたみかけて与党や大臣をせめたてる。答えはただ一つ、「記憶にございません」である。このやりとりで時間切れとなってしまう。「なぜ?」と、いわれたら、そう答えるしかないだろう。「なぜ?」と、いう質問はけっしてよい質問ではないようだ。不幸に対する質問であることは間違いないだろう。「そういえば最近、なぜ? が多すぎる」と亭主は女房に思う。けっして幸福ではない。







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