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評者◆相馬巧
ヅェルリーナの永遠の生命――芸術を語ることの困難さについて(2・終)
No.3496 ・ 2021年05月22日




■近代社会のうちではいかなる芸術(音楽)の営みも、ある種の滑稽さから逃れることができない。モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》がこのことを象徴している。峻厳たる道徳法則を身につけた市民たちにとって、快楽の使者としてのジョヴァンニの姿は滑稽な誇大妄想に過ぎないものとなる。そのため、いかに彼の魅力や力強さが喧騒されたとしても、真の意味でその本質が見直されたことにはならない。このオペラのフィナーレにおいては、ついにジョヴァンニは亡霊となった騎士長の手によって地獄へと落とされる。彼は社会から抹殺(水林章にならえば「埋葬」)されるのだ。
 『あれかこれか』にてキルケゴールは、ジョヴァンニを美の体現者と捉えていた。彼の解釈に基づくとするなら、この地獄堕ちの場面は、近代社会における美の不可能性を象徴していると言えるだろう。近代とは、作品に内在する形式美という理念が滑稽なものとなった時代である。では、そのような困難を前にして、現在の芸術の営みにいかなる手立てが残されているのか。
 「ヅェルリーナへのオマージュ」という短いエッセイにおいて、アドルノはこのオペラの第2幕にあるアリア〈Vedrai, carino…〉に注目する。このアリアは、町娘ヅェルリーナのパートナーであるマゼットが闇夜のうちにジョヴァンニに騙し討ちされたところに彼女が登場して歌われる、いわばふたりの仲直りの歌である。奇妙なことに、アドルノは、この歌からは人類の和解Versohnungというユートピア的な状況が束の間のあいだ想起される、と指摘する。それはつまり、互いに他者を搾取し合うことで仲違いをしていた近代社会の人々が和解を遂げた状況を指す。

ダ・ポンテは(……)、道徳的、社会的な序列の再建のために、身の毛もよだつような夜、親しさに満ちた幸福なランタンに火を燈す。そうして、不器用で無骨な者すべての代名詞となった男〔マゼット〕と彼女の和解に光が投げかけられる。モーツァルトのオーケストラの後奏では、仲違いした人類そのものさえもが和解に導かれるように思われる。(「ヅェルリーナへのオマージュ」)

 前回論じたように、ジョヴァンニとは、この社会による他者の搾取という行為の最大の被害者であった。そのため、もしこの人類の和解が達成されるならば、彼もまたその力を取り戻すことになると言えるだろう。しかし、先の引用にてアドルノが「ように思われるscheinen」と書いているように、この和解とは、決定的に実現不可能な理念とみなさなくてはならない。つまり、ここで提示される和解のヴィジョンとは、ヅェルリーナの3分ほどの短いアリアのなかのほんの一瞬のうちに想起されるものに過ぎないのであり、社会的・政治的な実行力を持つことはない。
 周知のように、アドルノの思想のなかで、仮想的な太古世界のイメージと重なる「和解」ないし「宥和」の概念は、反近代に向けた参照点として極めて重要な位置を占める。だが、しばしば誤読されるところであるが、このヴィジョンを彼の思想が目指す到達点と言うことはできない。むしろ、和解の概念とは、体系化された近代社会に生きる人間に与えられた、次なる一手を捻出するための打開の手段と捉えなくてはならないのだ。一般的な誤読から、手段と目的を反転させる必要がある。
 だからこそ、この和解のヴィジョンに基づき、アドルノはヅェルリーナの歌につぎのものを見て取っていた。これが芸術の実践と結びつくことになる。

彼女はまだアリアを歌っている。しかしその旋律はすでにリートである。それは、そのほのかな息吹によって格式ばった制度の呪縛を脱し、しかもなお色褪せて行く様式のもとに身をひそめ、さまざまな形式に包まれている自然なのだ。ヅェルリーナの姿のうちには、ロココと革命のリズムが停滞している。(同上)

 《ドン・ジョヴァンニ》が1787年というヨーロッパの激動の時期に作曲されたことを象徴するように、このアリアの音楽は、18世紀のロココの時代からフランス革命、そして19世紀へと向かう美的な様式の移行を体現する。18世紀的なアリアでもあり19世紀的なリートでもあるという音楽の曖昧な性格が、この移行の産物とみなされるのだ。
 そしてなかでも、先の引用には「さまざまな形式に包まれている自然」という興味深い言葉がある。人間による芸術の営みが、逆説的にひとの手の加わらない自然のイメージと結びつくとすれば、この言葉は、アドルノの『美学理論』における「自然美」の問題と重なり合うだろう。このなかでも、定義、概念化、そして規定一般に逆らう対象としての「無定形なものdas Amorphe」という言葉に注目したい。それは、自然の経験のうちにみとめられる没形式的な形式性であり、音楽の営みで言えば、ある作品の解釈が楽譜の体系といった客観的な諸法則のうちに支配されたものでありながら、その客観性に基づきつつ支配の乗り越えを志向するものを指す。
 このように、近代社会におけるジョヴァンニの不遇な状況が芸術における形式美の衰退と結びつくのに対して、ヅェルリーナの曖昧で無定形な歌は、没形式的な形式の美、すなわち崇高と結びつくと言える。またそれは、作曲、演奏、批評といった諸々の判断にとって、崇高の美学が重要な役割を果たすであろうこととも言える。こうして、ジョヴァンニに見出されることで輝きを得たヅェルリーナが、逆にジョヴァンニを照らし返すのだ。

彼女に恋をする者は、戦いの時代に挟まれた無人地帯から、白銀の輝きを帯びた彼女の声とともに響いてくる、言い表し得ぬものdas Unaussprechlicheのことを心に思っているのである。(同上)

 この「言い表し得ぬものdas Unaussprechliche」は、「崇高なる真理」にてラクー=ラバルトも述べていた「いわく言いがたいものje‐ne‐sais‐quoi」と重なり合う。繰り返しになるが、それはヨーロッパの伝統として形式(形相)的な美の把握に還元されないもの、すなわち崇高を指す。こうしてアドルノの批判のまなざしは、ヅェルリーナのアリアのうちに、崇高なものに基づく判断のあり方、すなわち音楽による「自然の言語のいわく言いがたさdas Unsagbareの模倣」の過程、ないしは「言語の発見」(『美学理論』)の過程を見て取る。
 しかし当然ながら、ここで模倣される自然とは決して予め実体として措定し得るものではない。それは言わば、いまだ存在しない過去としての第一の自然のイメージであり、近代の諸条件のうちに崇高の美学に基づき構想してはじめて獲得される。その意味で、こうした音楽作品の解釈による自然の言語の模倣には――アドルノが自身の演奏論のなかで明確に述べていたように――、「オリジナルなきコピー」(Zu einer Theorie der musikalischen Reproduktion)という言葉が理念として設定される。
 強固に体系化された近代社会のなかで、一見ヅェルリーナはどこにでもいる女性に見えるだろう。しかし近代の単線的な歴史の流れに中間休止をもたらすアレゴリーのまなざしが彼女へと向けられたとき、崇高な形象としての彼女は近代の歴史のうちに永遠の生命を持つことになる。

彼女は静止状態にある歴史の比喩として永遠の生命を持っている。(「ヅェルリーナへのオマージュ」)

 芸術の営みをめぐる滑稽さを振り払い、美の象徴としてのドン・ジョヴァンニを取り戻すためにはこうした契機を取り逃してはならない。
 さて前回も宣伝をしたが、筆者が選曲・演出・文章を担当した映像企画「はまぷろstudio2021 Così fan tutte…?(女はみなこうしたもの…?)」が、オペラ企画HAMA projectのホームページにて公開されている。今回論じたアリア〈Vedrai,carino…〉も収録されているので、ぜひご覧に入れたい。
(東京大学大学院博士課程)







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