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評者◆睡蓮みどり
書を捨てるな、街へ出て、本を買おう――バーラ・ハルポヴァー、ヴィート・クルサーク監督『SNS‐少女たちの10日間‐』、ハーモニー・コリン監督『ビーチ・バム まじめに不真面目』、D・W・ヤング監督『ブックセラーズ』
No.3493 ・ 2021年04月24日




■外に出るな、飲み歩くな、と言われ続ける日々が続き、確実に以前よりも外に出なくなった。腰をあげるのが億劫なのだ。身体は健康になったのかもしれない。ほとんど二日酔いにならないせいで、午前中に起きて朝ごはんをしっかり食べる。床に飲んだ覚えのないワインの瓶が転がっていることもない。そんな自分が怖い。病気も怖いが健康も怖い。ちゃんと生活していると、過剰になることが怖くなり、エネルギーの放出の仕方がわからなくなる。
 家にこもって机に向かっていたからといって、いい創作ができるわけでもない、ということを『ビーチ・バム まじめに不真面目』の主人公・詩人のムーン・ドッグ(マシュー・マコノヒー)は身をもって体現してくれる。明るい太陽や心地よい潮風を浴びながら、これでもかと人生を謳歌する。大富豪の妻の財力が後ろ盾となっていたことも含め、自由な生活を貫く。どんなに悲惨なことがあろうとも、ここまで人生を楽しもうとするこのあふれんばかりのエネルギーに当てられて、飲んでもいないのにだんだんとほろ酔い気分になり、おかしなテンションになってくる。創作に向かうエネルギーは一瞬のものではなく、日々人生に起きる様々なことが積み重ねられてできるのだということを再認識させられる。
 これを、必ずしも創作者やアーティストといった特権的な言葉に置き換える必要はない。生きている者たち全てにとって、生きるモチベーションが必要だ。人間は生き永らえるためだけに、日々食べたり眠ったり生殖活動を行ったりするわけではない。全くもって不健康なこの映画は、しかし人間が生きるということにおいて至極健康的な思考回路だ。ハーモニー・コリンとマシュー・マコノヒーという最強のコンビに胸が踊る。

 外に出ないせいか、最近めっきり物欲が減ったな、とも感じていた。先日あるギャラリー兼書店を通りかかり入ってみた途端、そこにあるもの全て欲しいと思った。物欲が減ったというのは嘘だった。好きなものたちに囲まれたら幸せになり、所有したいと思う。ネットサーフィンで本を探していてもそんな風にはときめかない。
 『ブックセラーズ』(4月23日(金)より、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか、全国順次公開)を観ていると、そういう好きな場所で目を輝かせるように、何度となくときめきが訪れる。出てくるブックセラーたち自身がときめいている素敵な表情をしていて、それが伝染する。二〇年かけてようやく出会える本があるという。
 数年前、長い間そこにあっただろうという感じの重たい作品集を神保町で見かけて一目惚れした。まだ散歩途中で、後で買おうと思い二時間後くらいに戻った。さっきまであった場所にない。尋ねると、ほんの数分前に売れてしまったという。重かろうが何だろうが、なぜあの瞬間に買わなかったのか、私は私を憎んだ。それ以来その本に出会えていない。
 ブックセラーたちはニューヨークの街で、何度も本との出会いと旅立ちを繰り返す。好きな本で作り上げられた世界は、決して同じ世界にはならない。どの本屋さんも違う匂いと違う温もりがある。本の他にも魅力的な古いものがたくさん登場する。必ずしも売って儲けることだけを目的にしていないがために成立する魅惑の世界だ。そのためか、出てくる人たちは皆それぞれに洒落ていてめっぽう格好いい。
 一方で、存続についての危機にさらされているのもまた事実についても映画では触れる。長年かけて足を運んで見つけた本は、いまはネットで検索すればすぐに出てきて購入できる。書店の存在意義が揺らいでいるのだ。思いがけない出会いを果たす喜びを求めて、本を買いに街に出かけたい。

 恐ろしい既視感だった。
 いまやネットで見知らぬ人と繋がるのは簡単だ。出会うためのアプリや掲示板もあるが、そうではないソーシャルメディア、例えばtwitterやInstagramやFACEBOOKなど、出会い目的ではないサイトに自分のアカウントを持った瞬間、見知らぬ人々と繋がってしまう。リプライでもDMでも、簡単に他者に自分の存在をアピールすることができる。同時に、いとも簡単に暴力的になるということを忘れてしまうのも簡単だ。誰かに送ったたった一言が、容易に相手を傷つけたり、トラウマになってしまうかもしれないという可能性も考えない。誰が知らない人間の醜い裸を見たいと思うだろう? 友達なんて求めていないのに、拒否したらなぜ怒られなければならないのだろう? 相手が血の通った人間だということを、どうして簡単に忘れてしまえるのだろう? 想像力の欠けた人間
を、私は心から軽蔑する。
 『SNS‐少女たちの10日間‐』はチェコで作られたドキュメンタリー映画だ。一二歳の少女に見える、実際には成人した役者が、架空の子供部屋で架空のSNSアカウントを作り、そこにコンタクトしてくる相手とのやりとりを観察する。早い段階で、やりとりの相手が一二歳の未成年であるということを強調するが、連絡してくる男性たちは、それは問題ではないと言い張る。
 映画に登場する専門家の意見では、彼らが必ずしも小児性愛者の特徴に当てはまるものではないという。より弱い者へ、より無力なものへ、彼らの欲望はエスカレートする。弱いというのはもちろん個人のポテンシャルの問題ではない。
 これがロリコン大国という不名誉な名前で呼ばれる日本で起こっているのではなく、チェコでの出来事だ。そこに既視感を覚えることに驚かされる。有料のアダルトサイトではない無料のSNSは、自分たちが卑猥で残忍な行為をしているという意識を和らげるのだろうか。彼らはいつだって自分が正しいのだ。そこに少女たちの好奇心という、素敵だけど厄介なものが掛け算になる。いや、好奇心自体は何も悪くないのに、そこにつけ込む人間たちがいるから厄介になってしまうのだ。少し危険そうなものや、触れてはならなさそうなものに抱く興味自体は決して悪いもので
はないはずだ。
 それなのに、守るどころか巧妙に近づき、消費し、搾取しようとする大人が後を絶たない。もしも少女たちが恐怖から自分の裸の写真を送ってしまったり、無視しようとしたりしたら、今度は悪いのはお前だと責めて脅迫めいたことを口にする。力関係が大きくなり、やがて簡単に支配になり代わる。
 一二歳は子どもだ。子ども扱いして見下したいのではない。意識の上で一二歳は決して子供ではないかもしれないが、彼女たちの想像以上に、世間には邪悪なものが満ち溢れている。触れなくてもいいものや、知らなくてもいいもの、不当なものが当然の顔をして、びっくりするくらい世間に散りばめられている。これは大人と子どもにおける力関係だけではない。パートナーや親から価値のない生き物だと蔑まれ、自分一人では何もできないような人間だと貶められることとも構造は同じだ。圧をかけられる側は外の世界に出るまで気づかないのも同じだ。それが子ども時代に当たり前のことだなどと麻痺してしまうのは恐ろしい。SNSは外の世界のように見えて、いつの間にか外どころか息苦しい密室になる。気が狂ったように鳴り響く着信音は、思考を停止させてしまう。
 欲望そのものは汚らわしくない。けれど見知らぬ人間の欲望を押し付けることは汚らわしい。欲望をぶつけ合うことも汚らわしくない。ただしそれはお互いが対等である場合のみ成立する。無料で、少女たちを巻き込んで消費するやり方とは、全く次元が別物なのだ。そこにリスペクトなど存在するはずもない。実際に、子どもたちとのやりとりを責められた男の言い訳は、「そんな風に子どもを放置する親が悪い」である。責任転嫁もいいところだ。たとえ彼女たちが傷つこうと、悩んだ挙句に自殺しようとも、自分だけは決して悪くないというのが彼らの考えだ。映画では少女たちが主人公だが、少年に対してこのようなことが行われていることも容易に想像できる。
 鬱屈として歪んでいて、そういう悪意や暴力は必ず弱い方に向かう。もしこの映画が他人事に思えたり、初めて見た世界だったとしたら、いままでそういうことに関わらないで済んでいただけなのかもしれない。これは遠い国の残酷な事実ではなく、どこにでも転がっている事実だ。映画では児童虐待に焦点を当てているが、ここから感じ取れる様々な問題や嫌悪感は、多くの弱者やマイノリティにも向かう。この現実を、どうか目を逸らさないで見て欲しい。
(女優・文筆家)







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