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評者◆相馬巧
ヅェルリーナの永遠の生命――芸術を語ることの困難さについて(1)
No.3492 ・ 2021年04月17日




■三月はHAMA projectという団体で初めてオペラ演出の仕事をしていた。オペラといっても舞台での全幕上演という訳ではなく、モーツァルトのダ・ポンテ三部作から合計でおよそ一時間分の曲を抜粋して映像収録をするという、いまの世相を反映した企画である。選曲と演出を担当しながら、それぞれの曲に向けて短い批評文を執筆した。HAMA projectのホームページ上で四月中の公開を準備している。
 それにしても今回演出を担当して、いまのオペラ制作に付きまとう独特の困難さを実感することができた。それは、クラシック音楽を高尚芸術として消費する文化がどこか時代遅れなものとなった現在の時代感覚に起因するものと考えられる。一般的にオペラを観ることとは、作品の魅力、鍛えられた美しい歌声ならびに精密な演奏を甘受することとされている。天才的な創造行為、卓越した技能を鑑賞することから、19世紀において西洋音楽が一種の超越的なイメージと結びつき、高尚芸術とみなされるようになったことは、西原稔をはじめとしてすでに多くの論者によって語られてきた。しかし、いま現在、高尚なものを消費する態度にはどこか「滑稽さ」が付きまとうようになった。このことが、いまのオペラ制作に付きまとう困難さを指し示している。すなわち、絶対的なものとして芸術が振る舞うこと、さらにはそれを無批判なままに称讃する観衆の態度が、現在の時代感覚にとっては節度をわきまえない誇大妄想のように見えてしまうのだ。そのため、いまのオペラ制作には従来と異なる態度が必要とされている。音楽批評にもまた同様の課題が課せられていると言えよう。
 芸術活動をめぐるこの「滑稽さ」について、アドルノは『美学理論』の崇高論の文脈のなかでつぎのように語っていた。ここでは、ナポレオンを代表するような歴史上の偉人と芸術が重ね合わされている。

精神として死に抵抗する個人のなかで、英知的なものが凱歌をあげている。そのために、個人はただ精神の担い手でしかないにもかかわらず、絶対的なものであるかのように威張り散らす。こうして個人は滑稽なものとなる。

 進歩するヘーゲル的な精神の担い手としての個人や芸術は、自らを崇高の仮象(偽りの現われ)として呈示するが、結果的にはそのことによって取るに足らぬ「滑稽なもの」とみなされるようになる。と言ってもこのことは、J・S・バッハ以降、西洋音楽が無限宇宙や神の啓示を模倣する技法を培ってきたことが行き着く必然であるとも言える。そのため、アドルノは『美学理論』のなかで、この滑稽さの発生と芸術における崇高の成立とが同位相の現象であることを述べていた。
 このように彼が崇高論にて展開した問題を、今回はHAMA projectの映像企画で演奏された楽曲に即して考えることにしたい。そのための重要なテクストとして、『楽興の時』に収録されたアドルノの「ヅェルリーナへのオマージュ」という短いエッセイを挙げることができる。ここで彼は、ヅェルリーナを中心として捉えたオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の構造に、滑稽さをめぐる芸術の崇高の問題を見て取るのだ。
 まずアドルノは、このオペラの主人公であるドン・ジョヴァンニ自身が、滑稽さを背負わされた存在であることを指摘している。

もはや初夜権をもたないからこそ、彼〔ドン・ジョヴァンニ〕は快楽の使者となる。そして、初夜権の行使をじつにあっさりと断念してしまった市民にとって、この使者の姿はすでにいささか滑稽なものとなる。(「ヅェルリーナへのオマージュ」)

 初夜権とは、《フィガロの結婚》のアルマヴィーヴァ伯爵が行使しようとしたことで知られる、中世ヨーロッパの統治者が持つとされた伝説的な権利である。ここで興味深い点は、アドルノがモーツァルトのオペラを考察する際に、19世紀的な「市民 Burger」を登場させていることにあるだろう。《ドン・ジョヴァンニ》が18世紀の末に作られた作品であることを考慮すると、このオペラの考察に市民が登場することは時代考証として少々適切さに欠ける。しかし、社会を構成する市民という理性的な存在を登場させることによって、アドルノは、近代という時代への問題意識からこのオペラを捉えようとしている。
 さらにここで彼は、試金石として「自由」という道徳的な観念を導入させる。というのも、水林章が名著『ドン・ジュアンの埋葬』のなかで論じているように、自由な「快楽の使者」であるジョヴァンニは、封建社会における諸々の制度を内側から破壊していく極めて危険な存在であった。だからこそ彼は地獄に落とされ、その後の市民社会のなかで彼はいわば骨抜きにされることになる。アドルノも同様のことを述べていた。

不安を知らぬこの男から市民たちは自由の理想を学び取った。しかしこの理想が一般化されるにつれて、それは、自由をなお特権として持っていた男に反旗をひるがえす。(同上)

 市民社会において自由は一般化されたかたちで獲得されるが、それはジョヴァンニの危険性を骨抜きにすることで可能となった。だからこそ市民たちは、いまなおオペラで「快楽の使者」たらんとする彼の姿を見て、誇大妄想のような滑稽さを見て取るのだ。
 しかしながら、この市民社会のうちにおけるように、果たして自由とは実体として措定し、かつ獲得し得るものなのであろうか。アドルノは、『否定弁証法』の「自由――実践理性批判へのメタ批判」の章といった道徳論において、そのような「市民社会の野蛮」を痛烈に批判している。これはつまり、社会が他者の犠牲のうえに成立しているにもかかわらず、崇高な道徳感情に支配されているがためにその事実を顧みることもせず、自らは自由の理想を達成していると詐称をすることにほかならない。アドルノ曰く、このことは社会の全体主義化と同等なものであり、その意味で市民社会は野蛮へと陥ることになる。自由の観念は真なるものにも偽なるものと結びつくのだ。
 だからこそ、「市民社会の野蛮」が真に批判されるためには、絶対的な他者としてのジョヴァンニをいま一度社会に呼び起こさなければならない。自由のうちに生きる彼を、われわれはいかにして取り戻そうか。そのためにアドルノは、オペラに登場するヅェルリーナに着目し、彼女からオペラ全体の構造を捉え直すことでジョヴァンニの救出を果たそうとする。そこでは、農村に住むヅェルリーナの社会的な身分が重要なものとなる。

彼女はもはや羊飼いの娘ではないが、まだ市民でもない。両者の中間の歴史的瞬間に彼女は属しており、封建社会の圧制に損なわれることもなく、市民社会の野蛮からも守られている人間性がほんのつかのま彼女において輝き出る。(同上)

 ヅェルリーナは、封建社会から市民社会へと移行する歴史の敷居のうえに佇んでいる。そのような曖昧な性格が、「ほんのつかのま」のあいだ社会から隔絶された人間性のイメージを映し出すとされる。このときアドルノは、彼女の「美しさと愛らしさ」(同上)が、ジョヴァンニの誘惑のなかで呼び起こされたものであったことを指摘していた。そこで生じた彼女の輝きによって、ジョヴァンニはその姿を照り返されるのだ。
 ところがこのことは、つかのまのあいだに立ち現れる瞬間的な出来事であり、照り返されたジョヴァンニの姿が実体として獲得されることもやはりあり得ない。だからこそアドルノは、自由という道徳的観念をめぐる社会的な関係性からヅェルリーナという曖昧な存在を規定しようとする。
(東京大学大学院博士課程)







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