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評者◆凪一木
その91 或る映画監督
No.3492 ・ 2021年04月17日
■友人と言っても昔からではない。(観客として)昔から知っている映画監督がいる。一〇数年の警備員生活を今も続行中で、先日も会うと、その日、警備員研修で、背広姿にネクタイを締めていた。だが、彼こそ、二〇二〇年の映画界にあって、観客一万人を突破し旋風を巻き起こした『子どもたちをよろしく』の監督、実は隅田靖その人であった。
二〇二〇年一一月二六日、東京・文京区民センターで「貧困ジャーナリズム大賞二〇二〇」授賞式とシンポジウムが開催された。二〇二〇年はコロナ禍もあり、メディアの貧困報道は活発だった。そこで特別賞に一作品だけ或る映画が選ばれた。『子どもたちをよろしく』である。監督は隅田靖だ。受賞者には交通費も賞金もなく、表彰状と花束と反貧困グッズのみ。授賞式のあと、竹信三恵子さんの司会でシンポジウムが行われた。 隅田靖が語る。 「映画監督はほとんどが貧困である。私もいま警備会社で働いている。そこに三五歳と四五歳の正社員の同僚がいる。年収は三〇〇万以下で、彼女はいないし結婚もできない。昼はパンかカップラーメンを食べている。こんな社会でいいのかとつくづく思っている」 『子どもたちをよろしく』は、犯罪礼賛的な変に突っ張った映画になっておらず、かつ教育映画的でもない。教育映画を免れているのは、ガラスを割るシーンのゆえである。このシーンを観るために、人は映画館に行く。もともと娯楽に満ちていて、抑制も効いている映画だが、ガラスを割るあのシーン一発において、社会派教育映画でも、暴力グロ映画でも、テレビドラマでも、そのどれでもない、残り続ける映画へと飛翔する。何度観ても、あのシーンから、私のビル管における逆襲物語も始まるのだと言いたい。 設備管理の私と、警備の、しかし日本映画界を蹴散らし始めた男とが、コロナ禍の陰で、日本酒を飲んでいる。日本社会の底辺を、オレたちが下から支えているんだぞ、などと言う自負はもちろん全くないけど、東京タワーや六本木ヒルズを指さして、「あれを建てたのは、俺だよ」という建設作業員のごとくに、東京の夜を守っているのはオレたちだという気持ちが少しはある。彼の場合は、昼も、映画館の暗闇に向かって光を放っている。 だが、大手警備会社ではあるが、双璧のあの会社ではない隅田靖は、生き生きとしているように見えた。一流の映画監督が警備の中で、軍隊の二等兵のごとくにどう折り合いをつけているのか、とても興味があった。私はすっかり離婚して独り身だと思い込んでいたから、「離婚なんてしていませんよ」という言葉に驚いた。と同時に励まされた。少しは腐らずに私もビルに向かおうか。 作家や芸術家の中にサラリーマンを馬鹿にする傾向がある人の多いのは、サラリーマン(やその他の労働者)が生活のための仕事だけであるのに対し、作家は作品をも作っているという自負があるからであろう。作品とは、生活や「食うこと」とかけ離れたどうでもいいものであり、生活の中だけでは生まれないものである。ライフワークとライスワークなどというが、ライスワークは本来作家には存在しない。ライスワークをしている作家は、偽物だ。それだけにライフワークは、後世に残ると思われているし、尊敬するに値するという思い込みも生まれる。 漫画家手塚治虫が六〇歳で亡くなったとき、もう少し生きていたならまだまだ多くの傑作を読むことができたのにと、少なくとも当時の私は残念がった。ご飯を食べる時間を惜しがって、妻に「片手で食べることのできる」おにぎりを作ってもらっていた手塚治虫。その同じ日にやはり六〇歳で、新聞記事にもならない名の知れぬサラリーマンの死を偶然知っても、私は気にも留めなかったであろう。 たとえば障がいがあってままならない人間は、その他の障がいのない人間から、いわゆる公的な援助を受けるのは当然であり、私が文章を書くことも似たようなもので、物書きとはある種の障がいではないのかと考えるときがある。時間がほしい。障がいのある者が、健常者と変わりないと言いながら、恨みもするように、物書きは、サラリーマンと同じ時間を過ごすことに苦痛を感じる度合いや深さが、まるで違うのではないか。 だから妻に「ゴミを捨ててきてくれ」と言われても、私の今書いているこの文章が、夏目漱石やドストエフスキーやその他の言葉(これにしても紙では五〇年程度で実は崩れてしまう)のように後世の人間の糧になるかもしれないなどと的外れなことは思わないけれど、一瞬だけはかなり意味のある行為で、この一瞬浮かんだ言葉だけは書き留めておかねばならぬという作家魂のようなものは他の何物にも優先して、これを侵害するあらゆる行為を許さない気持ちはある。字を書いているときは、横から声を掛けられてもうるさいとしか思わない。そんな自分が、まして、ゴミを捨てる以上の何倍もの時間、ビル管理をするなんぞ、考えたこともなかった。 松本清張は、給仕や露店手伝い、印刷工などを経て四〇歳を過ぎて作家に転身した。だが、清張のデビューを私は、自身が三〇歳ぐらいまでは「遅い」と感じていた。よくもまあ、そんな遅い始まりでこれだけの作品を精力的に書いていると思っていた。だが、今考えると、そうでもない。そのぐらいの「貯め」の期間は必要だ。 しかし、そうなるまでにもっと多くの邪魔(疎外や困難=生活)が入れば、五〇歳のデビューの場合もあろうし、デビュー前に死ぬ場合もあろう。生活というものは、それほどにまずは捨てられない枷である。その生活を差し置いて、作品を優先させろとは言わない。だからと言って、手塚治虫がその漫画を書く手を止めて、ゴミを捨てにいく時間がもったいないとか、その途中で車に轢かれて入院し、休載したとか、書けなくなったとか、それはやはり、代わりに誰かがゴミを捨てたり、障がい者を救うように、手塚プロを助けろ、などといった気持ちを私は考えてしまう。 サラリーマンは、障がいのある者や、芸術家のような作品という生活の足しにもならない行為をする者に対して「お前たち、生活力のない者には恵んでやろう」ぐらいの立場ともいえる。そのサラリーマンさえもが食えないというのなら、国なんて機能していないことになる。 力説をしてみるものの、隅田靖は笑って慎み深そうな口に、無言で酒を運んでいた。 旨そうだった。 (建築物管理) |
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