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評者◆凪一木
その89 ビル管「挨拶」物語
No.3490 ・ 2021年04月03日




■一二月一日。オリンピックイヤーの吹っ飛んだ二〇二〇年、あっという間の師走である。
 現場の勤務人員が四月に六人から五人に減らされた。にもかかわらず、下請けである我が社T工業は、その五人を満たすことが出来ず三人で稼働している。私の入社当初、多いときで八人もいた時期があり、三人となった今はほとんどまともに機能していない感がある。ただし、元請けに仕事を提供しているビルマネジメント会社(ビルオーナーの子会社)自体のトップが、急に脳梗塞で倒れ、一人欠いた状態であり、下にどうこう言える状況ではないことが幸いしているのか、災いしているのか、全体として、満身創痍のビルメンテナンス状態なのである。
 新所長(勤務人員の五人定員を束ねる元請け会社の人間)は、少ない人員状態でありながら、これまでのやり方を大幅に変えて、責任者が次々に辞めていく中で、点検表やマニュアルを新たに作れと押し付けてくるうえ、怒鳴り、恫喝し、人員不足にもかかわらず、責任者を飛ばし、新たな現場人員候補者を断り、残った三人は、針の筵の上での勤務状態が続いている。
 そして、新たに、先週の木曜から一人、本日一日から一人、現場に加わることになった。その朝礼でのことだ。所長が一言。
 「二人がこの現場に加わったわけで、自己紹介ぐらいしようよ」。
 自己紹介ではなく、「山(仮名)といいます」「川(仮名)といいます」「よろしくお願い致します」という挨拶は、既にしている。
 他業種からビル管理業界に入って、特に私が感じることだが、自己紹介の全くない業界なのである。苗字しか名乗らず、記録もなく、退職の最後まで、ただの山さんだの川さんだのという、それが本名なのか、偽名なのか、あだ名なのかさえわからぬまま消えていった人をたくさん知っている。「自分が何者であるか、或いは家族構成や過去の履歴は問わず、聴かず、話さず」が、良いところでもあるというのが業界の定説である。氏名、婚姻の有無、資格の有無についてさえ質問はタブー化すらしているようだ。
 それでいて、自分の言いたいことだけは、しつこく、聴きたくもないのに話してくる人間もまた多い。語りたがり屋の所長は、私には話してこないが、私以外の現場の、T工業のみならず、同室にいるS警備の隊長や隊員たちにも、ああだこうだと話すタイプだ。特に、「俺は中卒(最終学歴が中学校)からのし上がってきた」という話を、武勇伝のように語ってくるという。その一事が万事とは言わないが、少々の予想ができるように、非常に差別意識が強く、コンプレックスの裏返しのごとくに、ミスや劣等と当人が感じる履歴を責めてくる。認められたい「承認欲求」の塊で、要は褒めてもらいたく、かつまた侮辱されていると(勝手にであれ)感じた相手に対しては、激怒や感情の高ぶりを抑えられない。ある種の歪みであろう。裸の王様。
 「自己紹介ぐらいしようよ」と言った所長に対して、私は、「所長自身もまだ、自己紹介をしていません」と疑問を呈した。だが、全く無視された。所長は、前の現場で問題を起こした人物で、その会社Sビルサービスから監視役のHという上司がたびたび来ている。「所長がおかしな真似をしたら報告してくれ」とのことだ。かつて、病院で大ミスをしたうえ、やはりパワハラ問題で、現場を本来は任すことが出来ない人間だという。しかし、前任者の突然の退社という緊急事態で着任してきた。この所長自体に信用はまるでないわけだ。
 とはいえ、この目付の人間が、下請け会社である我々の苦情をそのまま受け取ってくれるとは限らない。それに、このHという人物も、私から挨拶しても、向こうからはせず、いったい何者なのかは、他の人から聞いて「そうなのか」と知っているだけであり、私に対しては、何の自己紹介もしていない。「所長の監視役」という話も同僚から聞いただけだ。
 そして所長は、T工業のK常務の右腕に当たる人物ミニK氏が来るたびに、怒鳴って、警備たちの間でも「パワハラ男」と話題になっている。
 こういったことが野放しになるのは、私の考えるところでは、挨拶もせずに済ませている、それでいて、上から気まぐれに「挨拶ぐらいはしようよ」などと挨拶させられ、一方、自分は何の自己紹介もしないままである、妙な空気が支配する独特のビル管体質があると思う。
 前日の一一月三〇日の夕方一七時過ぎに、ミニK氏が、入館カードを取りに現場にやってきた。「明日また来ます」と言って帰るのだが、その直後に、所長は、「ミニKのバカ野郎は、俺をわざと怒らせようとしてるのか。一二月の予定表は組み直しだな。昔の俺なら、どうなってたかわからんよ」と激怒した。予定表は、私らの勤務も含めてである。一二月に入って変更されては、それこそ予定も立たない。新人がこれに異を唱えるのだが、それはまたの機会に。
 パワハラというのは、日本のちょっとした文化であるのか、「長い物には巻かれろ」で、私の他の二人は、所長の言いなりになりつつある。私の初めて所長を見た二日目の朝である。朝礼での所長の言葉は、以下の通りだ。
 「もっと、相手に伝えうるだけの、わかりやすい文章を心掛けましょうよ。せめて新聞くらいは読みましょうよ」
 新聞ぐらい読んでいる。一応は、こうして文章を書いている。ユニオンの機関紙にも書いている。会社における文書においても、手を抜いて書いたことはない。「分かりやすく伝達できていない」というのなら、一体どの文書についての件であるのか、過去いずれの文書においてでもよい。まずそれを証明してほしい。受け取る側が著しく理解能力に劣っている場合は、そう主張する人間の方に、むしろ理解能力を上げる努力をするべき、と私は考えるが、そういう理屈は通用しまい。
 その日、朝礼前に実は、私に対して、有無を言わせず怒鳴ってきた。一体何のことなのか、今でも分かりかねるので、明日あたり説明を求めるつもりだ。
 私は、副所長に「手伝ってくれ」と言われるまま、二階から七階へ指示された什器・什物を移動し、また、同じように七階から二階まで指示された通りに手伝った。詳しいことをここに書いても面白くないが、ビル管現場は、まるで『タイガーマスク』の虎の穴なのか。次々と新しいヤクネタを送り込んでくる。
 サイコパスとは別の第二のキチガイの登場である。
(建築物管理)







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