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評者◆相馬巧
音のパラタクシス――バッハ・コレギウム・ジャパンの第九(4・終)
No.3487 ・ 2021年03月13日




■中間休止を含む緻密な構成のもとに音を投げ放つこと。それによってバッハ・コレギウム・ジャパン(以下、BCJ)のベートーヴェン9番交響曲の演奏には、カントの崇高論への道が開かれる。この演奏は、星としての音を天空の丸天井へと配置していくことによって音楽の星座を生み出す。またそれは、予め決定された星座、すでに形式づけられた構造を再現するものではなく、音のパラタクシスの作用によって未知なる形象を描き出す。このことを第4楽章にて歌われる「歓喜」の概念の問題へと敷衍させたい。
 なぜ交響曲に歌を導入したのかという疑問に対して、アドルノは、ベートーヴェンのうちには「音楽をして語らせようとする衝動」(『ベートーヴェン――音楽の哲学』)があったことを理由にあげる。バッハの音楽が意味を欠いた純粋に感性的・身振り的な語りに留まったこととは対照的に、ベートーヴェンは意味言語と同様な語りが可能となるよう音楽を強要したと言う。そこには19世紀初頭のヨーロッパを生きた芸術家に向けられる時代の要請があったのだろう。しかし、それは彼にとって無謀な挑戦であった。音は、固有なかたちではいかなる意味も持つことはできない。そのため、音楽が音を操る芸術である以上、音楽が意味言語と同様に語り出すことは、本来あり得ない。
 アドルノはこの両極のうちに音楽のアンチノミー(二律背反)を見て取る。つまり、根本的に音楽という現象とは意味言語への接近と離反という相反する運動によって成立していることを言う。それならば、ベートーヴェンが9番交響曲の第4楽章に詩=言葉を語らせたことは――もし演奏がこの詩の内容のうちで安逸をむさぼるものであるならば――この音楽のアンチノミーを回避する退行に過ぎないことになる。アドルノもまた、そのことが「この楽章が持つ疑わしさの真の原因であるようだ」(同上)と述べていた。
 しかし、BCJの演奏によって、この疑わしさを解決するひとつの道筋が立てられた。パラタクシスの文体を有する後期ヘルダーリンの詩は、「抽象的な概念だとして有罪判決を下された言葉を再度響かせて、それにいわば二度目の生命を与えるような言葉の結びつき方を目指す」(「パラタクシス」、『文学ノート2』所収)。それならば、この演奏に見受けられる音のパラタクシスもまた、「歓喜」という意味のドイツ語のFreudeのうちに音が二度目の生を営むことを促していると言えるのではないか。この二度目の生が演奏のうちに実現されていないのならば、それは死滅した言語、死滅した芸術のあり様にほかならないことになる。
 では、この演奏において音楽と言葉がいかなる関係にあるのか。精鋭揃いであるBCJの30名の合唱団は、まずなんと言っても、ドイツ語のディクション(発音法)を驚くほど綿密に統制し、すべての歌詞を明瞭に聴き取ることができるようにしている(これほどの精巧さはほかに聴いたことがない)。そして、元来バッハの宗教曲を専門とし、ポリフォニー音楽の演奏に長けた演奏団体というだけあって各パートの独立性が高く、あらゆる楽想を徹底してポリフォニックに歌っている。
 なかでもこの特徴が大きく効果を発揮したのが、第4楽章終盤の「抱き合おう、万人よ!」から始まる主題と「歓喜、美しい神々の火花」から始まる主題を変奏しながら同時に並列して歌われる4声のポリフォニーの箇所だ(録音のトラック9)。同時に歌われるふたつの歌詞は明瞭に聴き分けることができる。そうして、この録音を聴く者は、幾度も生き生きと連呼されるこの「抱き合おう」や「歓喜」といった言葉の渦に身を置くことになる。ここでシラーの詩はもはや、ある道徳的・思想的なメッセージを伝達するものとしてではなく、比較対象を持たない端的に巨大な音の集積、すなわち崇高なものとして立ち現れる。と言ってもそれは、なにか未来のユートピアや過去にあった根源的なものを提示するのではない。いまここでひとつの生命がひたすらに咆哮している。
 ヘルダーリンの詩「ムネモシュネー」の第三稿につぎのような箇所があった。

だが前方も後方も我らは/見ようとは思わない。我らを揺らすに任せよう、ちょうど/海上の小舟に揺れるように

 この「前方」と「後方」を、アドルノは「パラタクシス」論のなかで先ほど述べたような未来のユートピアならびに過去にあった根源的なものと解釈している。詩人による決意表明とも取れるこの箇所のように、パラタクシスの文体は、決してなにかの意図を伝達しようとするものではあり得ない。それは、現在の時間にひたすらに定位することで、言葉の持つ潜勢力を明らかにする詩、言語の営みをいま一度生起させる詩である。これはまた、作者の主体的・能動的な技巧によってのみ得られるものでもない。

破格構文で、また風変りな倒置で表現される〔この〕決意(……)は、結局のところ綜合を断念し現在を完全に満たすために、純粋な受動性に身を委ねようとする意図なのである。(「パラタクシス」)

 ドイツ観念論に固有な普遍的真理を目指す「綜合」を断念し、言葉に対してあくまで受動的な態度を貫き、構文を変形させていくことがヘルダーリンの詩の書き方であったのだろう。言葉の意味のうちに安逸をむさぼるのではないが、また同時に、その意味が提供する綜合の原理を真っ向から全否定するのでもない。だからこそ、彼の詩は決してカオス的な状態にあることを許さない。

つまり彼の詩は、支配原理に対して――抽象的な否定のかたちで――支配されたもの、それ自体カオス的なものを健全な状態として対置しない(……)。ヘルダーリンは自由の状態を綜合の原理を通してのみ、その自己省察というかたちで期待しているのである。(同上)

 言語は様々な規則によって拘束されている。その意味で、あらゆる言葉は単独ではまだ「自由な状態」にあるとは言えない。また、言語の規則を全く無視して言葉を並べたところで、それはただ取るに足らない代物が生まれるに過ぎず、それも「自由な状態」にあるとは言えない。だからこそ、「自由」という概念を達成するためには、言語の諸々の規則へと定位し直さなければならない。言語がいまいかなる状況にあるのかという現状認識をより精密なものにし、拘束を相対化する受動的な自己省察がなければ、「自由」の概念の達成はあり得ない。
 そして音楽もまた様々な規則によって拘束されている。ベートーヴェンの悲願であった「音楽をして語らせようとする衝動」とは、ヘルダーリンと同様、彼がそうした音楽の規則と向き合う自己省察の先にあったヴィジョンであったと言えよう。BCJの演奏にある、あの第4楽章のポリフォニーの箇所での言葉の躍動は、このことと密接に結びついている。
 当然ながらそれは、ベートーヴェン個人の技術によって達成されたものではない。音楽芸術という性質上、作品の成立には必ず演奏の営みが必要になる。この点において、BCJの演奏に見受けられる音のパラタクシスの技法、そして聴き手に与えられる崇高なものの感情がこの曲の「歓喜」が達成されることの分水嶺となるのだ。
 第4楽章のシラーの詩は、『ヨオロッパの世紀末』における吉田健一など、これまで多くの論者によって批判の対象とされてきた。しかし、その空虚な「歓喜」の概念がいかなる音にのせられているのか、演奏とともにいま一度問い直す契機をBCJの録音は与えている。最後に、ヘルダーリンの「宥和する者よ!決して信じられたことのない……」の第三稿から次の箇所を引用しよう。

なぜなら、人間的なやり方でのみ、/あの未知なる力は我らに親しいものになる/星辰が君にそれを教えている、/君の目の前の星辰が。なぜなら、決して君はそれと等しくなることはできないから。
(東京大学大学院博士課程)







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