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評者◆相馬巧
音のパラタクシス――バッハ・コレギウム・ジャパンの第九(3)
No.3485 ・ 2021年02月27日




■パラタクシスと呼ばれるヘルダーリンの詩の文体は、既知のものを未知なるものとして描き出す。それは、語や文要素の倒置、また各行の中間休止Zasurによる詩の進行の分断から生まれる。バッハ・コレギウム・ジャパン(以下、BCJ)によるベートーヴェン9番交響曲の演奏もまた、音を並列させることによって各パートの関係を中間休止の状態に置く。その技法を「音のパラタクシス」と呼びたい。このことによって、演奏には謎めいた緊張感、アドルノの言葉を借りれば「滑らかなだけではなく、急峻な性格」(「パラタクシス」、『文学ノート2』所収)が帯びると考えることができる。このことを論証していく。
 この演奏で音のパラタクシス性が最も顕著に表れている部分が、第3楽章の第二変奏への自由な推移部(83‐98小節、6分38秒から8分03秒の部分)である。ホルンら管楽器が音を重ねるなかに、ヴァイオリンからチェロまでの4つの弦楽器パートがそれぞれピチカートでBの音の二連符、三連符を出し、さらにその動きを変形させていく。ここで立ち現れる各パートの音は、ワーグナーのオーケストレーションのようにひとつの音色へと混ぜ合わされることなく、それぞれの楽器の音色をそのままに保存させている。古楽器演奏の音色の特徴が実によく発揮されている部分と言えるだろう。
 興味深いことに、4つの弦楽器パートは、それぞれが異質な音色を出し、溶け合うことがない。BCJは、発した音を予め定められた位置に留め置くのではなく、いわば投げ放つ。管楽器が夜空、そこに浮かぶ月、月明かりに照らされた山々を線で描くとすれば、弦楽器はその空に星々を点で描き出していく。このときにヴァイオリンは「小さなヴィオラ」ではないのだ。それぞれが異質な音色を持った音の星々は、投げ放たれて初めて自らの位置を得る。だからこそ、この夜空に立ち昇る星座を前もって知る者はいない。この各パートの関係性を、ヘルダーリンに倣い中間休止の状態にあると言うことができるだろう。演奏の統合性に逆らう音の集積が並列されることで、9番交響曲は最大の拡張を迎える。
 続く第二変奏ならびにコーダにおいては、1stヴァイオリンが変奏された主題を弾き、管楽器が伴奏を加えるのだが、この周囲をあの弦楽器の三連符の動きが取り囲み、全体を支配する。そうしてコーダにて二回、三連符の動きがフォルテとスフォルツァンドの強奏を迎える(120‐123小節、130‐132小節)。しかしそれは、第1楽章の展開部のように客観的な暴力を孕む獰猛さを有してはいない。展開されることもなく、また論理的な筋道が与えられることもなく、ただそこに現れては、力なくデクレッシェンドしていく。中間休止された音の集積が並列されて星座を生み出すこの状況こそ、音のパラタクシスの大きな特徴と言えよう。
 それにしても、第3楽章の多くの演奏が、それぞれの音を予め定められた位置に統御されている。いわばそこでは、音楽の構造が音の放出に先行しているのだ。しかし、この構造化の傾向によっては、却って第3楽章の音型がカオス的に音を連ねることに終始してしまう。それは、ベートーヴェンが推移部を自由な幻想曲として書いていることに起因する。つまり、ワーグナー型の精密に統合されたオーケストレーションによってはこの反秩序的な音型を捉えることができないのだ。
 BCJの演奏に見受けられる音のパラタクシスは、音の集積をただそこに並列させることで、音楽の構造をその都度、事後的に作り出す。いわば、ベートーヴェンの幻想曲的な書法と相重なるかたちで、音と音楽の順序を逆転させるのだ。だからこそ、そこでの音楽語法は未知なるものとなる。

彼の詩が詩的に選び抜かれた言葉や活き活きとした経験を、もはや素朴なかたちでは頼りにすることができなくなるとき、それは言葉の配置、それも判断形式のそれに満足しない言葉の配置に、いわば感覚的な現在性を期待する。(……)抽象的な概念だとして有罪判決を下された言葉を再度響かせ、それにいわば二度目の生命を与えるような言葉の結びつき方をヘルダーリンは目指す。(「パラタクシス」)

 「判断形式」とは、ここでは人間の論理的な思考と解釈することができるだろう。倒置や中間休止を駆使することで、ヘルダーリンが論理的思考によっては汲み尽くされない叙述を行ったように、BCJの9番交響曲の演奏もまた同様の目的論的な判断を斥ける。それはいわば、自然の万物は絶対者によって規定され、目的を有するとみなす考えだ。ここで音楽の構造は、予め絶対的なかたちで統合されて立ち現れるのではない。だからこそ、BCJの演奏は、西洋音楽をめぐる美学=感性論Asthetikの領域にカントの崇高論への道を開く。

したがって星を散りばめた空の眺めを崇高なものと呼ぶなら(……)、たんにこの空を見たままに、あらゆるものを包括する広大な丸天井として見なければならない。(……)同じ様に、大洋の眺めも、私たちがありとあらゆる知識(しかしこの知識は直接的な直観のうちには含まれない)で豊かにされたしかたでそれを思考するようには眺められてはならない。(『判断力批判』)

 かつてリオタールは、アドルノの音楽論を敷衍させた『非人間的なもの』などの著作において、現代音楽と崇高論との接続をはかった。しかしいまや、この崇高論への道は現代音楽にのみ見出されるものではない。現在の演奏実践によって、西洋音楽の様々な作品に崇高論への道は開かれようとしている。そしてこのことは、音のパラタクシスの技法によって可能となる。それぞれの音は、予め決定された統合のかたちへと向かうのではなく、投げ放たれて初めて自らの位置を知る。このような中間休止に関して、カントは次のように述べていた。

この〔崇高なものによる〕快は、生命力が瞬間的に阻止され、それにただちに引き続いて生命力がより強力にほとばしり出る感情を通じて生み出される。(同上)

 だからこそ、中間休止を経てより強力な生命力を伴った音楽は、「急峻な性格」を持つ。そしてまさにこの点において、BCJの演奏は合奏の統合性をめぐる決定的な転換点を指し示している。それは演奏によるハルモニアの再規定とも言えるだろう。音のパラタクシスによって、聴き手は音楽に美しいものの感情だけではなく崇高なものの感情を覚えるようになるのだ。
 さて、以上のようにBCJの演奏を論じてきたが、ここには一点、気がかりな問題が残されている。それが第4楽章の歌詞の問題である。というのも、パラタクシスによる中間休止を孕んだ合奏と「すべての人類は兄弟になる」という言葉の内容は、一見して相容れないものと思われるのだ。しかし、ここで真に重要な問題は、音のパラタクシスによって形成された演奏の未知なる統合のあり様のなかで、シラーの詩にある「歓喜」のモティーフがいかなるかたちで描き出されるのかを問うことにある。アドルノも次のように述べていた。

それ〔パラタクシスの文体〕は、詩的には、立法的な主観そのものを犠牲にすることを是認する。主観とともに、ヘルダーリンにおいては、詩的な動きがはじめて意味のカテゴリーを揺さぶる。(「パラタクシス」)

 ヘルダーリンの詩において、文章の論理的な展開や文要素を司る「立法的な主観」は相対化される。そうして、彼の詩のなかの言葉は、配置のあり方によってその意味のカテゴリーが揺さぶられ、結果として強い生命力を噴出する。それならば、BCJの9番交響曲の演奏において、シラーの詩はいかなるかたちで歌われているのだろう。
(東京大学大学院博士課程)







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