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評者◆相馬巧
音のパラタクシス――バッハ・コレギウム・ジャパンの第九(1)
No.3479 ・ 2021年01月16日




■2019年に発表されたバッハ・コレギウム・ジャパン(以下、BCJ)によるベートーヴェンの9番交響曲の画期的な録音には、演奏の統合性のあり方をめぐる決定的な転換点を見出すことができる。この演奏に見られる各パートの統合のあり方が、それまでと全く異なるものであったのだ。その特徴を挙げるならば、古楽器から発せられる未洗練な音色や不可避的に生じる微細な音程のズレ、そして合唱が加わってもなお覆い隠されることのない各パートの音の明瞭さである。なにより、それぞれが独立している音の集積をひとつの合奏のなかでいかに配置するのかという点において、BCJは画期的な仕事を成し遂げていた。近代以降の音楽文化が拠り所としたフェティシズムは、ここでは遠ざけられている。その意味で、BCJの演奏を正当に評価する基準はいまだ存在していない。
 だからと言って、「BCJは古楽だから良い」などと言及することは無意味である。第一に、古楽であることそれ自体に芸術的価値が見出されていた時代はとうに過ぎ去っている。第二次大戦後にG・レオンハルトらが始めた演奏活動を直接の源流とする現在の古楽運動であるが、これが当初スローガンとした演奏の「オーセンティシティ(真正性)」という言葉は、1990年頃には取るに足らぬ言葉とみなされるようになった。手稿譜の研究や古楽器を用いていかに正確に初演当時の状況を再現しようとも、実体の見えない過去の状況が完全に復元されることはあり得ない。また、もし仮に完全に復元されたとして、その演奏が優れた芸術的価値を持つとも言えない。このことに気付いた古楽演奏家たちは、作者の意図の完全な再現を演奏の理想とみなす形而上学的な思考に疑いの目を向けるようになった。
 それならば、古楽とは作品を解釈する上での重要な選択肢のひとつと考えなくてはならないだろう。BCJの演奏の特徴とこの作品の性格とがいかに合致していたかを考察していこう。
 一般的に、モダンオーケストラは各パートの音色を可能な限り溶け合わせることによって、全体の音色をまるでひとつの楽器から発せられたものであるかのように響かせるものである。それに対して、BCJの演奏の一貫した特徴は、各パートの音が明確に独立していることにある。この団体が擁する日本人の古楽演奏家のほとんどは、同様の演奏の傾向を持つベルギーやオランダにて活躍をしている。そのため、フランス、ドイツ、イギリスなどの古楽演奏団体と比べても、この特徴が一層際立ったのだと想定できる。当然ながらBCJの合奏は、独立した音の集積を厳密に統御している。しかし、決して各パートの音色が跡形もなく溶け合うことはなく、それぞれの音がある一定の距離を保ちながら配置されているのだ。
 このような演奏の特徴と9番交響曲の性格がいかに合致するのか。ドイツの思想家Th・W・アドルノは、ベートーヴェン中期の5番、7番交響曲などの古典主義的な作品と、《ラズモフスキー》1番や《大公》の各第1楽章といったロマン主義的な作品が、それぞれおおまかに「集約的タイプ」と「拡張的タイプ」に分類されるとした(『ベートーヴェン――音楽の哲学』)。前者の作品群では、音楽の形式がひとつの統合原理のもとに包摂される。特にアドルノは、第1主題と第2主題とが動的に媒介されるソナタ形式の展開部に注目し、これを完全な絶対精神へと向かうヘーゲル的な弁証法の過程とを重ね合わせる。それに対して後者の作品群では、時間のなかで音が幾何学的に配置され、弁証法的な媒介がほとんど起きないままに音楽が進行する。さらにアドルノは次のように指摘していた。

9番交響曲とはある意味で、集約的タイプと拡張的タイプとを組み合わせる試みである。晩年様式には両者が含まれている。この様式は明らかに拡張的タイプが示している崩壊の過程の帰結であるが、そこから生まれる断片を集中的原理のもとに包摂するのである。(同上)

 1824年に作曲された9番交響曲もまた、晩年様式の性質を共有している。しかし、ベートーヴェンの晩年の代表作である後期の弦楽四重奏曲や《ミサ・ソレニムス》のような作品がより顕著に崩壊の過程を辿ることと比較するならば、9番交響曲はずっと古典主義的な作品に近しいものと言わざるを得ない。というのも、前者の作品が自らの性質をよりラディカルに発展させることで解読不可能な音の暗号を形成していく一方で、9番交響曲は、そのような暗号となる手前で、拡張的タイプから集約的タイプへの移行を行うためだ。
 この移行が明確に現れる箇所を見ていこう。第1楽章の展開部の冒頭に、1stヴァイオリンとソロのファゴットがポリフォニー的な掛け合いをする箇所がある(178小節以降、BCJの録音では4‥40から)。アドルノはこの部分について次のように述べていた。

静止するのか展開されるのか、曖昧なままそのあいだでどっちつかずのまま放置されている。こうした性格は、この箇所が「純粋ではないこと」を通して、つまり技術上で決着が付けられないことを通して、同時に生み出されたことによるものである。(同上)

 1stヴァイオリンとソロのファゴットの音は、いずれかの声部に解消されることなく曖昧に放置される。そうして、それぞれの音は幾何学的な模様のうちに配置されるのだ。しかしこの状況が、展開部の主要モデルの登場する箇所で一変する(217小節以降、録音では5‥40から)。曖昧な身振り」を振り切り、第1主題の展開というひとつの主体的な「決断」を行うことで、作品は弁証法的な媒介へと進むのだ。それでもこの第1主題の展開は、決して古典主義的な作品と同様の展開部とは言えない。

しかしこの決断は、主体的表現による決断ではない。むしろそれ以上に、客体的なものに向かう決断、(……)言うなれば放棄すること――主体的ではあるが、いわば暴力的に、客体性へと移行すること――の決断である。(同上)

 この展開において、作品は統合という「客体性」へと向かう。しかし9番交響曲は、古典主義的な作品に比べて拡張的タイプの特徴をより備えているために、この客体性へと向かう音楽の暴力性をより明瞭に映し出す。ここでアドルノが分析した箇所はほんの一部分であるが、それでも「放棄することの決断」の問題は9番交響曲全体に覆いかぶさっている。このことが、第4楽章の「おお友よ、このような音ではなく」という歌詞に結実するのだ。言うなれば、この作品は、現代の古楽演奏に特有な問題である音の独立性と音楽の統合性が併存する構造をすでに明示していたのである。
 ではここでBCJの録音に話を戻そう。当該箇所を聴くと、アドルノの作品解釈との厳密な一致を確認することができる。各パートの音の独立性の高さによって、ポリフォニックな掛け合いのうちでもファゴット、1stヴァイオリン、さらにほかのパートも、溶け合わずに曖昧な関係のまま留め置かれる。すると第1主題の展開において、並置されていた音は熾烈な統合性へと引き戻されるのだ。
 驚異的なコントラストの鋭さである。これほどまでに拡張的タイプから集約的タイプへの移行を鮮明に映し出した演奏は、フルトヴェングラーのほかにいなかったのではないか。ほとんどのモダン、古楽オーケストラの9番交響曲の演奏が、集約と拡張のいずれかのタイプに傾いてしまい、その移行を的確に表現し切れていない。アドルノの作品解釈がいまだに有効なものであるとするならば、それを通して、古楽演奏が担う芸術的役割をさらに明らかにすることができるのではないか。またこのとき、古楽が彼の作品解釈を実証する手立てとなることは間違いがないだろう。ここで、「音のパラタクシス」というモティーフを提起したい。
(東京大学大学院博士課程)







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