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評者◆福島亮
彼女は何を生き、経験したのか――フランツ・ファノンとカミーユ・シュモル
No.3479 ・ 2021年01月16日




 I lose my baby——去年の十一月十一日、リビア沖で移民・難民を乗せたボートが転覆した。スペインの非政府組織「オープン・アームズ」が公開した救助シーンの動画には、救命ボートの上で絶叫する女性の姿がある。冒頭の四つの単語は、その叫びの一部である。母親の手を滑り抜け、灰色の雲が立ち込める地中海の海に飲み込まれた赤ん坊は、変わり果てた姿となって母親のもとに帰るだろう。幼児の名前はジョセフ。ギニアの首都コナクリで六ヶ月前に生まれた命だった。
 ギニアからリビア沖まで、この母親はどのような行程を辿ってきたのか。道すがら、彼女が生き、経験しただろう困難は、例えば冒頭に引用した四つの英単語からもうかがえる。ギニアでは公用語のフランス語と複数の民族語が話されている。しかし、あの事故の時、叫びはたとえ片言であるとしても英語でなされなければならなかった。救助隊に助けを求めるためである。咄嗟の言語の切り替え、言葉の境界線の乗り越えを、この母親は移動の過程でこれまでにも経験してきたのではないか。そんな私の想像は、所詮ぼんやりとしたものにすぎず、叫びの背後にある彼女の生体験を具体的に想像してみることは容易ではない。なぜ彼女はギニアを離れたのか。どのような道順で北アフリカに辿り着いたのか。誰の助けで地中海を渡るボートに乗ったのか。彼女は何を生き、何を経験したのか。
 転覆事故の数日前、フランスで一冊の書物が出版された。地理学者カミーユ・シュモルによる『海に呪われたる女たち』である。著者は現在パリ大学で准教授をしている。本書の目指すところは、地中海を渡る移民・難民の女性が語る生体験を聞き取り、そこから地理的ヴィジョンを立ち上げることである。
 目を引くのはなんといってもタイトルだろう。読者は必然的に、フランツ・ファノンが死の間際に著した『地に呪われたる者』(一九六一年)を連想する。もっとも、急いで付け加えておくと、本書はファノン論ではない。事実、ファノンの名前が登場するのは一箇所だけ、とある註においてである。
 タイトルからの連想という次元を超えて、それでもやはり本書をファノンとともに読んでみたいと私が思ってしまうのは、今年がファノン没後六〇年の年だからである。NHK番組「100分de名著」でも、ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』が取り上げられるようだ。ファノンへの関心はフランスでも非常に高まっている。例えば、去年の九月にファノンの人生を題材にしたバンドデシネ(BD)が刊行された。また、ラジオ番組でファノン特集が組まれたことについては、本連載第一回目で一言だけ言及している。
 本書は二つの重要な視点を提示しているのだが、それはファノンを今日読む際にも無視できないものである。本書をファノンとともに読んでみたくなるもう一つの所以はここにある。
 第一の視点は、「ヨーロッパ」をどう捉えるのか、というもの。今日、地中海を渡ってやってくる移民・難民の存在を抜きにしてヨーロッパを考えることはできない。サルトルは『地に呪われたる者』の序文で植民地主義が暴力となって宗主国に返ってくる時代を「ブーメランの時代」と論じた。ところが今、時代はさらに進んで、増加し続ける移民・難民はヨーロッパの存続そのものの「危機」として立ち現れている。ブーメラン、というよりも、むしろヨーロッパの境界線それ自体が問いに付されている時代、「境界的時代」なのである。エティエンヌ・バリバールやミシェル・アジエの名を引きつつシュモルが提示するのは、そのような「ボーダーランド」としてのヨーロッパである(ミシェル・アジエについては、二〇一九年に『移動する民』という邦訳書が刊行されていることも書き添えておこう)。
 第二の視点は、本書のタイトルでも示されている通り、女性である。よく指摘されるように、ファノンの著作において女性が占める位置は小さい。だからこそ女性の声を聞きながらファノンを読み直すことには意義がある。第一の視点との連関でいうと、地中海を渡る女性の数は実際増加しつつあり、しかも移動に際して、DVや性暴力、女性医療の不足といった物理的・制度的暴力が移民・難民女性を取り巻いている。そのような女性の中には、一人で地中海を渡る者も少なくない。それにもかかわらず、とりわけ移民については、女性という観点からの研究の蓄積が薄かった。移民女性は所詮移民男性に付随する存在にすぎない、とみなされてきたからである。
 これら二つの視点を提示しつつ著者が目指すのは、移民・難民女性を彼女らの歴史の政治的主体に変えること、移民・難民女性の視点から彼女らを取り巻く社会をそれまでとは別の仕方で検討することである。本書でファノンの名が登場するのは実はこの箇所の註においてである。
 以上ファノンとシュモルを併置する形で述べてきたが、以下では、シュモルの本の特異性にフォーカスしてみよう。
 まず、本書が移民・難民を空間という観点から論じていることは強調しておきたい。
 本書は全五章から構成されているのだが、その第四章では「モラル地理学」や「モラルスケープ」という観点から移民・難民収容所におけるインターネットの役割が分析されている。ここでいう「モラル」とは、不安や安心といった心的なもののことである。
 例えば、「倦怠」は収容所の心的側面の一つである。ビザ発給手続きに必要な長期間にわたる不安定な待機状態は、移民・難民を倦怠に追いやる。そこで問題となるのが、収容所の立地条件や移動手段の有無である。男性の多くは自転車や自動車を用いて外出し、スポーツをし、仕事をし、要するに収容所の外部へと出ることで、この倦怠状態から抜け出すことができる。しかし、移動手段を持たず、また、労働の選択肢が限られ、収容所の内部にとどまることが多い女性にとって、倦怠は重くのしかかる。
 そのような倦怠に抗う手段の一つは、インターネットの使用である。SNSを通して誰かとやりとりしたり、母語で書かれた文章を読むことは、心的な負担を和らげてくれる。スマートフォンやタブレットは、移民・難民にとって、連絡手段や身分証明として必要なだけでなく、従属状態から抜け出すための手段でもあるのだ。
 次に、随所に女性たちの声が登場することも本書の特異な点である。著者はそれを「(外国語から自国語への)翻訳version」の喩で説明する。すなわち、強力な理論を設定して、そこに彼女たちの声を押し込むのではなく、反対に、彼女たちの語りに即して、理論が構築されていくのである。この「翻訳」がラディカルに示されるのは、第一章であり、著者は章全体をカメルーン出身の移民女性ジュリアンヌの人生の聞き書きによって構成している。
 最後に、シュモルの研究の余白に常に文学の存在があることも指摘しておきたい。本書は文学研究書ではない。それでも、本書において文学は無視できない位置を占めている。そのことを示すのは、本書冒頭で召喚される二人の女性の存在である。
 二人の名は、シャウーバとカディ・デンバ。前者はイタリアの劇作家リーナ・プローザの戯曲『ランペドゥーザ・ビーチ』の主人公であり、後者はフランスの小説家マリー・ンディアイの長編小説『三人の逞しい女』の主人公の一人である。
 研究の間ずっと、この二人の女性が側にいた、と著者はいう。作品について云々するのではなく、また世界の悲惨があまりにひどいがために文学などもはや無効であるというのでもなく、そうではなしに、シャウーバとカディという二人の女性とともに著者は移民・難民女性たちの現実を書き取るのである。
 この最後の指摘は、おそらくファノンについてもいえることである。文学作品を読み解くための「理論」としてファノンが読まれるようになって久しい。しかし、例えば『黒い皮膚・白い仮面』の第五章「黒人の生体験」であんなにも多くの文学作品が引用されているのはなぜなのか。このような問いは、フィクションと現実をめぐる容易に答えの出ない幾つもの問いへと私たちを引き込むだろう。

Camille Schmoll, Les damnees de la mer : Femmes et frontieres en Mediterranee, Paris, La Decouverte, 2020.
(フランス語圏文学)







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