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評者◆関大聡
アカデミー、女性、哲学――通りすがりのひと、バーバラ・カッサンに
No.3476 ・ 2020年12月19日




■「ヨーロッパ文化遺産の日」というイベントがある。一九八四年以来、毎年九月第三週の週末に開催される行事で、歴史的施設や美術館などが門戸を開く貴重な機会である。エリゼ宮や元老院、官公庁に出入りできるのも魅力的だが、フランス学士院(アカデミー)もそのひとつだ。フランスは現在二度目のロックダウンを迎え、用なく外出することは禁止されているから、少しだけ時を遡り、この日の回想から始めてみたい。九月にそんなに出歩いていたから現在のロックダウンを招いたのだ、という非難には耳を傾けず……。
 コンティ河岸の学士院は、セーヌ川沿いを散歩すると必ず目に入る建物で、その外観から「クーポール」(丸天井)とも呼ばれる。この日は、マザラン図書館や、例会がそこで開かれるという会議室の見学に加え、五、六名のアカデミー会員によるサイン会が開かれていた。瀟洒な衣装に長身を包んだハイチ出身の作家ダニー・ラフェリエールの周りには人だかりが絶えず、あまり有名でない会員の席に閑古鳥が鳴いていたのは少し寂しい気持ちにさせたが、ひとつだけ無人だった席に、昼食でも終えたのかゆっくりとやってきたのが哲学者、文献学者のバーバラ・カッサンだった。
 一六三五年に創設され、これまで七三五名の終身会員を数えたアカデミー・フランセーズの長い歴史にあって、カッサンはわずか九人目の女性会員である。この機関の歴史、その特異性は好奇を惹く。そもそもアカデミー・フランセーズが初めて女性会員を選出したのは一九八〇年、作家のマルグリット・ユルスナールを選んだときで、四十年前までは男性のみから構成される世界だった。二〇一九年に出たミレイユ・ブレモンの『マルグリット・ユルスナール、アカデミーの女性』が分析するように、彼女のアカデミー入りはその内外でひとつの事件として受け止められたのだ。
 アカデミーの保守的性格はしばしば諷されてきたが、それは「フランス語の番人」としての彼らの使命にも無縁でない。フランス語の名詞は男性形と女性形に分かれるが、この区別は決して一筋縄でいくものではない(最近アカデミーはCovid‐19を女性形に認定したが、大半のメディアは男性形を用いている)。特に近年問題とされたのは、職業・身分の多くが男性形のみを持ち(医者や博士、大学教授など社会的地位の高いものに多い)、また女性形があっても男女まとめて呼ぶときには男性形に統一されるといった慣行である。こうした一種の言語的性差別に対し、両性を平等に扱う記述法として「インクルーシヴ書法」が推進されてきたが、アカデミーはこれに長らく懐疑的な、というか反対する態度をとってきた。
 日本語に転記して説明するのは難しいが、たとえば男子学生はエテュディアン、女子学生はエテュディアントなので、インクルーシヴ書法を採用すると「エテュディアン(ト)」と綴る。アカデミーの男性会員はアカデミシアン、女性会員はアカデミシエンヌなので、「アカデミシアン(エンヌ)」と綴る、と言えば、その厄介さは伝わるかもしれない。だがそのためにフランス語が「死の危険」に晒される、と言ってはあまりに過剰だが、それこそ二〇一七年時点のアカデミーの見解なのだった。
 そのアカデミーが二〇一九年初頭、インクルーシヴ書法への反対は崩さないにせよ、職業・身分を女性形で綴ることには「いかなる原理的な障害もない」と認め、名詞の女性化のいくつかの規則を提案するに至ったとき、「ル・モンド」紙の記者は「ようやく!」と嘆息した。ことほどさように規範と現実のギャップを埋めるには長い時間を要するのであり、言語はその特権的な舞台である。とはいえアカデミーがそこで演じる役柄は、魅力的ではあっても狂言回し的なものに過ぎず、主役はあくまで日々の糧として言葉を用いる私たちであること、これを忘れてはなるまい。
 バーバラ・カッサンに話を戻そう(ちなみに後述の自伝によると、彼女の名前は「アメリカ風に発音すべき」だそうなので、バルバラでなくバーバラと表記する)。彼女は古代ギリシアのソクラテス以前の思想、とりわけソフィストと呼ばれる人々の思想に関心を持ち、その主著『ソフィスト的効果』(一九九五年)はあまりに有名である。単純化して言うなら、「詭弁家」として哲学から排除されてきたソフィストたちの言説を、二〇世紀の言語論的転回に沿う仕方で再解釈した、と言うことができようか。精神分析や言語行為論、グーグルなど現代メディアへの関心もそこから派生したものと考えられるが、中心にあるのは言語、そして翻訳の問題である。二〇〇四年に彼女が編纂した『翻訳不可能語辞典』は画期的な辞書として賞賛を浴び、数多くの翻訳論も発表している。
 同じアカデミーの会員だったマルク・フュマロリが「ヨーロッパがフランス語を話した時代」への憧憬を絶やさないとすれば、カッサンは「アフター・バベル」、つまり複数言語時代の翻訳の思想家である。これまで日本語訳がないのが悔やまれてきたが、本稿を準備しているなか、二〇一三年の著書『ノスタルジー』の翻訳が出ると知った(馬場智一訳、花伝社)。素晴らしいことだと思う。
 カッサンがアカデミー入りしたのは二〇一九年のことだった。自らフェミニストと名乗りはしないにせよ、彼女にとっても女性であることは些細な事柄ではない。まず挙げられるべきは、ユネスコ発行の『女性哲学者誌』に立ち上げ以来主導的に関わっているという事実だろう。これは世界の女性哲学者たちの声を可視化するユニークな企てで、二〇一一年以降不定期に刊行されている。大半の哲学者、とりわけ大哲学者と呼ばれる人々の性が男性である社会にあっては、別の立ち上げメンバーであるフランソワーズ・コランも言うように、「真理の男女不平等(ディスパリテ)」が存在する。であれば、少しでもフェミニズムに関心をもつ人間にとって、哲学と女性の関係にどうして無関心でいられようか。
 ラカン論『性関係は存在しない』(二〇一〇年)、ハイデガー論『ハイデガー ナチズム、女性、哲学』(二〇一〇年)を経て、『男性、女性、哲学』(二〇一九年)に至るまで、アラン・バディウとの一連の共著で掘り下げてきたのも、この主題である。現代のプラトン主義を標榜し、普遍への忠実を訴える男性哲学者(バディウ)と、現代のソフィストとして、相対主義の立場に立つ女性哲学者(カッサン)――一見すると両者は真逆で、交渉の余地はないかに見える。そしてバディウも、抜け目のない対話者として、そうした図式を引き受けながら、彼女に女性として、哲学者として、女性哲学者としての立場表明を迫ってみせる。
 だがこの優れてプラトン的な「対話」は、危険な落とし穴を含んでいないか。それは、何であれ立場を自らのものとして引き受け、そこから発言するなら、今度はすべてがその立場から説明されてしまいかねない、というアイデンティティの罠である。たとえば哲学から排除されてきたソフィストへの関心は、まさに彼女自身が哲学から排除されてきた女性だからこそ芽生えたものだろう、といった類の説明は、たとえそれが妥当な説明だとしても、ソフィスト=女性=反哲学という図式を強化するものでしかない。
 こうなれば割り振られた立場から逃げ出せなくなってしまう。その息苦しさから逃れるために、カッサンはアイデンティティを戦略的な抵抗の身振りとともに引き受ける。「あなたは女性として、女性の立場から発言していますね」と問われれば、「いいえ、私は哲学者として話しています」と答え、「あなたは哲学者として発言していますね」と問われれば、「いいえ、私は女性として話しています」と答える。いかにもソフィスト的な詭弁で、対話から逃げていると言うべきだろうか? いや、そうした対話/詭弁という図式こそが、対話のうちに潜んでいる詭弁性を暴露しているように思われる。対話の場それ自体が一定の権力関係によって支配されている場合には、それを逃れてもいい。これもまたソフィストの教えではないだろうか。
 カッサンはそうした固定的立場を逃れる在り方を、ボードレールの詩「通りすがりの女に」に擬えてみせる。つねに逃れ去る女性。それもある種のイメージの投影=固定化だろうか。だが普遍化は避けながらも、「女性性」なるものが彼女にとって何らかの意味を持つとすれば、それは決定的に肯定的な意味合いである。ここでようやく今回取り上げたかった本に辿り着くが、二〇二〇年刊行の哲学的自伝『幸福、その死ぬほど優しい歯』――今度はランボーの詩からの引用――が語るのは、そうした生の肯定に他ならない。これは美しい書物だが、もちろん美しいことばかり語られているわけではない。とりわけ教授資格試験の最中、生まれて間もない赤ん坊に授乳するために退出し、そのまま試験を断念したことは、平然と語られてはいても、当時の彼女の胸中は測り知れない。
 しかし、厳密に個人的な資格で、と断りながらも、「女性にとって哲学者であることは困難ですか?」という問いに「いいえ、難しくありません。男性にとってと同じです」と答えるその断定は、自らの力で――アカデミーの扉を開くまで――道を切り拓いてきた彼女の、とりわけて肯定的(アファーマティヴ)な主張である。本書はその随所が愛と幸福の実感に彩られているが、夫エチエンヌとの関係、とりわけ彼の臨終のときの記述は、「感動的」というありふれた言葉がかえって適切に思えるほど、生や死というあたりまえの日常にみずみずしい肯定をあたえてくれる。もっとも、女性の幸福が伴侶との関係で説明されるのだと示唆するようなところはひとつもない。別の人間への愛(たとえば詩人ルネ・シャールとの関係)もあれば、哲学への愛もある。詩への愛もあれば、演技への愛もある。こうなれば彼女自身も言うように、この哲学的自伝をひとつの「愛の歌」と呼んでみたい気にさせられる。
 演技と言えば、九月の過日、小柄だが悠然とした彼女の体躯は、哲学者より女優を思わせるところがあった。あのあと彼女はどうしたろうか。通りすがりの女に相応しく、すぐにまた無人の席を残して去っていったかもしれない。「きみの遁れ行く先を私は知らず……」。だがそれは回想ではなく空想に属する事柄である。ここで一度筆を擱くことにしよう。
(フランス文学・思想)







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