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評者◆福島亮
追いつかない時評、遅れてやってくる対話――「覚醒した感受性と結論を急がない意志」をもって歴史をとらえることの重要性
No.3472 ・ 2020年11月21日




■気が重たいのはこの原稿を書き始めたのが十月二十二日、すなわち留学先のソルボンヌ大学で盛大な追悼式が行われた翌日だからだろうか。いや、それだけではない。執筆中に身の回りの状況は刻々と変化し、夜間外出禁止令は全面的な外出禁止令になり、二九日にはニースで死者が三人出た。あるいは遠い日本から聞こえてくる醜聞にもこの気の重さの遠因はあるはずである。以下、この気の重さをめぐって、とりとめもなく、いくつかの事柄を想起してみたい。
 ソルボンヌでの追悼式を思い起こすことからはじめよう。あの時、まず感じたのは戸惑いだった。普段なら授業の合間に学生たちが腰をおろし、スマートフォンを見たり、サンドイッチを食べたりしている、さして広いともいえない石の中庭が、一瞬にして政治的な劇場に転じたからである。親しかった人が、ある瞬間に全く別の表情を見せた時の戸惑いに近いかもしれない。いや、そんな戸惑いを感じるのはこの学校にあまりに慣れすぎていたからで、フランスに初めてやってきた時は、ソルボンヌを、大学ではなく教会かなにかだと思ったものである。舞台として選ばれたソルボンヌが、そもそもは中世における神学の牙城であったこと、その象徴性を忘れてはならないはずだ。あの石の中庭ほど、教育と信仰を重ね書きするのにふさわしい場所もないのだから。
 大統領演説にかんして言えば、約十四分にわたる追悼演説後半、とりわけ十二分あたりからのヴォルテージは見事というほかなく、うっかり聴き入ってしまいそうになった。もっともそれは、大統領の朗唱法だけが理由ではない。心のどこかでは、これだけきちんと語り、言葉をつくし、「文学」や「音楽」、「魂と精神が生み出すありとあらゆる作品」を尊重する――少なくともその建前だけは守ろうとする――国のトップの姿勢に、ある種の羨ましさを感じていたのかもしれない。
 さりながら、演説に散りばめられた「光=知」に連関する語彙に、それでもなおある種の違和感を拭えなかったこともまた事実である。無知蒙昧をなぎはらう光の歴史を思い返すならば、その光のもとでいや増した影の歴史もまた忘れ去ることはできないからである。私にとってそんな影の一例は、一九六一年十月十七日、パリで起こったアルジェリア人虐殺の影だった。
 時を遡ってみよう。アルジェリア戦争(一九五四‐一九六二年)末期、独立闘争にともなう「テロリズム」を抑止するという名目で、北アフリカ出身者だけに夜間外出禁止令が発せられた。この人種差別的な禁止令に反対するため、一七日、北アフリカ出身者による非武装デモが組織される。この武力を持たぬ人々に、モーリス・パポン率いるパリ警察は徹底的な弾圧を行った。犠牲者の中には、橋からセーヌ川に投げ落とされた者も少なくなかった。二〇〇一年、事件の舞台となったサン・ミシェル橋には、虐殺を記憶するためのプレートが設置され、毎年十月十七日には献花式が行われている。ちなみにソルボンヌ大学は、このサン・ミッシェル橋から大通りを数百メートル行ったところにある。
 話を二〇二〇年に戻そう。アルジェリア人虐殺事件から五十九年後の十月十六日、翌日から夜間外出禁止が始まるという――教育現場にとってみれば、同時に万聖節のヴァカンスが開始するという――その矢先に、パリ郊外の静かな町で起こった惨劇を、共和国の陰惨な暗部の傍らに置くことは馬鹿げた話だろうか。
 どうやらこのような連想をする人は私以外にもいたようである。教員殺害事件の翌日、サン・ミッシェル橋で六一年の虐殺を追悼するアルジェリア人の集会があった。そこである演説者は、前日の事件に言及することを忘れていなかった。もっともその言及は、二つの事件の因果関係を探るものではなく――ましてや正当化するのでは絶対になく――、共和国が抱える矛盾に対する言葉にならない当惑へと差し向けられていた。
 当然のことながら、時を隔てたこの二つの事件には直接的な関係などない。しかも、デモ参加者の虐殺と教員の殺害では、問題の布置や構造が明らかに異なっている。だが、それでもなお、両事件を貫通する何かを見出そうとするならば、それはやはり第五共和政が抱えた矛盾ということになる。どんな矛盾か。無理を承知で敷衍するならば、それは、植民地問題解決を目指したはずの第五共和政がそれに失敗し、むしろ共和国の内部に移民からなる内的植民地を構築してしまった、ということ。そしてその内的植民地という共和国の穿孔から、「コミュノタリスム」という共和国にとっての「妖怪」が這い出している、ということになろうか。
 ここでいったん立ち止まろう。このままでは、抑圧する側とされる側、マジョリティとマイノリティの固着した対立関係に議論が逢着しかねない。そもそも私のそんな性急さ、連想ゲームじみた線引きこそが、大統領演説で批判されていたのではなかったか。
 大統領演説にもう一度立ち返ってみよう。この演説の中で印象に残った言葉の一つに、「アマルガム」という言葉がある。アラビア語由来のこの魅惑的な言葉は、科学的には水銀と他の金属の合金を、軍事的な文脈では混成部隊を指すのだが、政治的な文脈ではいささかネガティヴな意味合いも持っている。すなわち、政治的意図に基づく混同、同一視の意味であり、今日的に言い換えるならば、「敵認定」である。例えば、「あいつはファシストだ」でもいいし、「あいつは赤だ」でもよいのだが、こういった十把一絡げによって「敵」を陥れようとすることをアマルガムは意味するのである。
 大統領演説から引用する。「サミュエル・パティを犠牲者にしたのは、愚かさ、嘘、混同(アマルガム)、他者への憎しみ、私たちが芯から、実存をかけて体現するものへの憎しみの、忌々しい共謀だったのです」。ここで言われているアマルガムの意味は、引用箇所にいたる文脈を考えるならば、ひとりの無名教師、それも「コーランを読んだこともある」という理解あふれる一介の地歴教師が、「宗教の敵」と一方的に認定された、という意味である。共和国のよき市民であれば誰もが標的になりうることを聴衆に叩き込むために、このアマルガムという言葉ほど適切な単語はないだろう。
 翻って、アマルガムの恐怖は、フランスに住むムスリムやチェチェン人の団体にも及んでおり、いくつかの団体はこの語を用いて懸念を表明している。この場合のアマルガムは、「あいつはテロリストだ」という認定のことである。線を引かれたあちらとこちら、どちらも極めて居心地悪く、不安である。
 アマルガムは、今やウイルスのようにこの惑星を覆っている。ウイルスの感染源をたどることがある時点から不可能になるのと同じく、アマルガムもまた、ある時点から「敵認定」するのが誰なのか、線を引くのが誰なのかわからなくなってくる。SNS上の悪意ある「敵認定」、あるいは「善意」に基づく「味方表明」によって、アマルガムはクラスター化するのである。その危険性は何もフランスだけに限られるものではない。合衆国大統領選挙でこのアマルガムが大活躍したことは言を俟たないし、日本についてはいくらでも最新の事例を引くことができるだろう。
 語義に立ち返るならば、そもそもは混合や融合を意味し、必ずしも否定的な意味を持っていたわけではないアマルガムなる語が、今や分断を象徴する語として用いられているのは、逆説的にも思える。だが、分断といっても、敵と味方の線引きこそが問題なのだから、別にパラドクスが現出しているわけではない。線引きと仮想敵の構築が同じ事柄の図と地であるという、当たり前といえば当たり前のことに結局はたどりつく。
 こうして、大統領演説にはじまった今回の時評は、一方では第五共和政の光と闇を、他方では仮想敵を構築するアマルガムの禍を提示して、どうにも答えが出なくなってしまった。この二つの壁に挟まれたあまりに窮屈な場所へと私は自ら迷い込んでしまったように思う。そこに加えて、日毎に変化する状況がある。だから私の時評は、唖然とするほど時の流れに追いつかない。この文章が掲載される頃には、状況は今とはまったく異なるものになっているだろう。
 こんな時に思い出すのは、詩人のジョン・キーツが弟宛の書簡の中で述べた、「ネガティヴ・ケイパビリティ」という概念である。人類学者のジェイムズ・クリフォードは、北米の先住民復権運動について語る文脈で、このキーツの概念を「覚醒した感受性と結論を急がない意志」とパラフレーズし(『リターンズ』)、そのような感受性と意志をもって歴史をとらえることの重要性を説いた。このパラフレーズを受け入れるならば、目の前に立ち現れているこの厚ぼったい、不透明で、重苦しい現実に立ち向かう時、状況の変化にどうしたって追いつかないと知りつつ時評を書くというこの小さな行為にもまた、ネガティヴ・ケイパビリティが要求されているのではないか。
 だから今、私は、遅れてやってくる対話のためにこの時評を書いている。
(フランス語圏文学)







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