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評者◆関大聡
フランスの変容?――阿部良雄とマルク・フュマロリ
No.3469 ・ 2020年10月31日




■連載「ふらんす時評」では、現在フランス留学中の二名(福島・関)が月代わりで同国の現在を報告することになっている。いわば「留学記」の亜種にあたるが、ことフランスに関してはこの種の留学記・滞在記に事欠かない。永井荷風『ふらんす物語』、横光利一『旅愁』、森有正『遥かなノートル・ダム』、遠藤周作『留学』など、実録・虚構を問わず、フランス経験談は無数にある。これは、フランスという国が放つ文化的威光のようなものを想定せずには理解しにくい現象だろう。
 絶版だが文庫もある阿部良雄『若いヨーロッパ』(一九六二年、文庫版一九七九年)を紐解いてみよう。一九五八年から三年間、フランス教育制度の最高峰を占める高等師範学校に留学したこのボードレール研究者は、フランス精神が「徹底した個人の自由というかたちと同時に、きびしいまでに論理的で規律正しい思考態度というかたち」に現われるのを見、その体得に自己の留学経験の意義を位置づけようとした。
 阿部にとって留学とは、自国とは異なる精神への湯浴みに他ならなかった、と言っていいだろう。たとえ彼自身はそれに続く六八年五月や構造主義・ポスト構造主義の思想的潮流によって、そうしたフランス精神に対する内側からの異議申し立てに直面するとしても(これについては続篇『西欧との対話』〔一九七二年〕を参照されたい)、この「精神」から学ぶべきものが今日失われたとは思えない。
 だが、当時にしてもやや気負って見えたに違いない「若いヨーロッパ」というタイトル――自身の青春とヨーロッパの「若さ」を重ね合わせるかのような、経験の一回性への強い信頼――に、気まずい隔世の念を抱くのは筆者だけではあるまい。いまや船旅で何か月もかけて渡航するという時代ではなく、気軽な旅行先でさえあるヨーロッパ‐フランス‐パリへの留学という「経験」は、はたして阿部の時代より豊かな出会いをもたらしてくれるだろうか。ヨーロッパは(もう)若くない。大学の講義を聴講するだけならオンラインで済むのではないかという声も聴こえてくるなかで、留学にどういう意味付けを与えればよいか。これは少なからぬ学生の頭を悩ませる難題だろう。
 あるいは、フランスという国そのものが変わってしまったのか。阿部と同じ一九三二年の生まれに、マルク・フュマロリという大学者がいる。今年の六月に物故した彼は、アカデミー・フランセーズの会員、コレージュ・ド・フランスの教授として、フランスの知的威光を体現した。
 その業績は多岐にわたるが、ルネサンス以降、フランス革命以前の旧体制の専門家として、人文主義(ユマニスム)の価値の強調が仕事の中心にあるのは間違いない。彼が描くヨーロッパ、フランスの輪郭を、ここで少しなぞってみよう。
 たとえば『文芸の共和国』(二〇一五年)は、ルネサンス期における「文芸の共和国」の存在を、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、パリといった複数の首都を持つ脱国家的な社交空間、言い換えれば自由な複数の精神が織り成すソーシャル・ネットワークとして描いてみせた。また、『ヨーロッパがフランス語を話した時代』(二〇〇一年)では、全ヨーロッパの精神的首都と目された十八世紀パリの諸相が見事に活写される。同書はそのタイトルも象徴的だ。フュマロリにとってフランス語とは、ヨーロッパを――世界を――精神的に結びつける普遍性への志向に他ならず、単なるコミュニケーションの道具ではない。今日においてもなお、フランス語とは「精神が秘密活動するための近代言語」ではないか、と著者は問う。
 「秘密活動」と訳したクランデスティニテという語が、第二次大戦中のレジスタンスを指す語でもあることに配意するなら、フュマロリにとってフランス語の擁護と顕揚とは、現代の支配的傾向に対する抵抗の身振りでもあることがわかる。二〇一九年に刊行された『立場――文学、美学、政治』は、著者が雑誌や新聞に発表してきた文章を集成した、千ページを超す書物である。第一部には古代・ルネサンスから現代に至る著者が偏愛する人物への称賛が、第二部には「論争」と題された時事的文章がまとめられている。本書を通じて、読者は彼の長年にわたる「レジスタンス」を見ることができよう。
 実際、フュマロリは現代への批判的介入を辞さず、そこでは旧体制下のフランスが理念上の参照枠の役割を果たしている。彼にとって旧体制とは「絶対王政」の一語に要約されるものではない。それは、王の世俗的権力の周縁もしくは外部で展開される、自由な精神の持ち主たちの「リベラルな」社会でもあった。現代の社会は、こうした自律的な社交空間を「貴族主義的」と評して一顧だにせず、「文化の民主化」の勝利を謳っているが、民主主義という土台の上で大衆に巣食っているのは、権力にへつらう新しい宮廷精神――但しその批判的側面だけは注意深く捨象した――ではないか。
 トクヴィルを好んで引用する著者は、批判者であることによって民主主義の最良の友たらんとする。とりわけ芸術と民主主義の関係を論ずるフュマロリの舌鋒は鋭く、この主題を惜しみなく展開したのが『文化国家』(一九九一年)である。本書は唯一邦訳もあるので(みすず書房、一九九三年)詳しい議論はそちらを参照されたいが、『立場』に収録された多くの論文も、文字通り「論争」を引き起こした同書のテーゼの再論、誤解への反駁、その後の展開を含んでいる。
 著者が現代を観察するときに批判的鏡の役割を果たすのは、ルネサンスの最良の伝統を引き継いだ旧体制下のフランスであった。その姿勢は、しばしば保守的とも反動的とも評されるが、フュマロリはそれを「源泉への回帰」なのだと強調する。この点で著者は、古代人と現代人、どちらが優れているかをめぐる旧体制下の「新旧論争」に事寄せ、いかなる発明も創造性も、旧きものとの対話なくしては成立しない、と繰り返し語る。
 フランスは変わった、かつてのような輝きを失ってしまった、と嘆いてみせるのも、フュマロリのように旧体制下のフランスへの深い学識を根拠に演じてみせるなら一流の芸当である。その二番煎じすらどう足掻いてもできない私は、「なぜフランス語か」というエッセイに、彼の筆には珍しく日本の名が現われるのを見る。
 「フランス語圏地域を超えて、アメリカや日本においてさえも、フランス語がかつてないほど欲望の的になっているとすれば、それは、自由な会話(コンヴェルサシオン・リベラル)のための条件の作り方を知るためなのだ」。
 リベラルは自由と同義ではないものの、ここではさしあたりそう訳しておく。「自由の国」フランス。その精神、そしてその精髄たるフランス語は、本当に私たちにも「自由な会話」への道を拓いてくれるのだろうか。その条件とは何で、今日それはなお可能なのか。この連載が、そうした問いとともにフランスの現在を考える機会のひとつになってくれればと思う。
(フランス文学・思想)







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