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評者◆凪一木
その63 小池劇場
No.3464 ・ 2020年09月19日
■この号が出るころには決しているはずだが、東京都知事選挙である。
昔から、私は北海道知事になりたいと思っていた。 小学校で児童会長になり、中学校で生徒会長となった。高校でも生徒会長に立候補したが大敗した。そのときの私は、政治的な場所から最も遠く離れた人間となっていた。 撮りたいよりも有名な映画監督になりたいとか、書きたいよりも有名な作家になりたいとか、政治が何かも分からず「生存の縄張り」だけを求めていた。その忘れていた自分を、ある日から延々と見せられる羽目になるのである。 コロナである。 コロナによって起きたことは、世界的な人的損失はもとより、経済的な打撃であり、日本では、ライブやイベント、スポーツ、接客業、飲食業などを直撃した。 ビル管理業はどうかと言うと、コロナによって得をしたIT業界のような面は一切ないが、しかし、被害もほぼ受けていない。相変わらずの同じ仕事ぶり(巡回と点検、検針、異常の発見)であり、そのビルが自粛をしようが、集団閉鎖となろうが、ほとんどのビルで、ビル管は通常勤務がそのまま続行された。つまりは、何の影響もなかった。 下請けの会社なども横ばいであろう。ビルマネと言われる元請けの管理会社は、オーナーから、今後見直し(請負金額の縮小や人員整理)を求められるであろうし、それにより、下請けにしわ寄せがいずれ来て、我々のような末端は、しばらくすると、大変な時代となるだろうことは予想できるが、今のところは無風状態である。 特に、大手の会社の入っている自社ビルは、温情なのか、裕福ゆえの措置なのか、有償での休暇が与えられ、ビル管理の人員を減らして、そのまま同じ給料をもらうことができた。私のビルなどはそうである。四月は六回の泊まりのみであり、五月は六回の泊まりのみで良かったが、月次点検が溜まってしまうので、敢えて日勤をプラス二回入れ、計八回の勤務である。六月より通常勤務に戻った。 遠隔監視するようなビルシステムは、今のところ、多くのビルにはないので、テレワークなどできないから、休みは、ただの休みである。設備も警備も清掃も、コロナの自粛中は平穏な日々であったのだ。特に警備は、無謀な東京五輪での、おそらくは大失敗したであろう非現実な、人員及び有能な人材不足を無視した多数の応援警備、強化警備があり、それがなくなっただけでも平和だった。ホッとしたというのが実情であろう。ビル管理の人間は、世間が地盤沈下して、相対的に、自分たちの立ち位置や懐が高く、温かくなったような錯覚を覚えた。実際に、地下にいると、ビルの地上にいた会社員の出勤者数が減り、相対的に軽くなったようだし、毎日が休日のような気楽さと、清浄な空気と、人間のあれこれを見ないで済む圧迫感のなさがあるのである。 三月末日時点で、家から駅までの距離にあった、二〇年以上は続いていたイタリアンレストラン、老舗のお蕎麦屋、居酒屋、中華料理店、喫茶店、洋食屋の少なくとも六軒がつぶれ、閉店の看板を出し、そのうちの二店は五月中に自宅ごと解体された。 見ているこちらが、その様子をどんな思いで見つめていたのか、加藤茶が、志村けんの死に「コロナが憎い」と言ったように、わけもなく、同じ台詞を口にしそうになった。 家にいても、外出して遊びにいくわけにもいかず、スーパーへの買い物さえ「複数人」や「混雑時間」など指定されたりして、ままならないことが多く、結局は、家で、テレビのコロナ報道と、ネットフリックスでの映画やドラマ鑑賞となる。 別にネットフリックスでなくても、Huluでも、dTV、amazonプライム、U‐NEXTなど何でもいいのだが、もうレンタルビデオ屋に借りに行く必要もないし、映画館に行く必要もないという人が増えたはずだ。いや、元々ビル管などは、映画館に行かないし、世間と切れてさえいる。 そこで起きたことは、まずはマスク姿の東京都知事小池百合子の登場である。それも、生中継で毎日毎日登場し、その再放送の使いまわしが何度も何度も現れる。関東以外の地域では、これほどまでに頻繁に目にすることはないのであろうが、選挙に関係ないので、それはそれで、織り込み済みであろう。 一九六二年生まれの私にとって、ビューティ・ペアの登場は、ギリギリ間に合わなかった。何が間に合わなかったのかと言うと、中学二年生の私にとって、彼女たちは、「女性」としての対象に入らなかったのである。私の父などは熱狂的にファンであり、それは単に年齢によるものであろう。 父が「プロレスも強くて、美貌で」という台詞を吐いていたのを強烈に覚えているが、子供の私にとって「オバサン」でしかない二人は、あの程度の顔でも美貌なのだから、年齢は取りたくないなあ、と思ったものである。ところがである。 二二歳のときに渡辺淳一原作の不倫物『ひとひらの雪』を観たときの、嫌な気持ちが、三〇年近くたって再び観たときの、妙な感慨を思い出す。主演の秋吉久美子は、当時私よりは年上で、後年に映画を観ると、私よりもかなり年下の女性ということになる。だが、そのこと自体には、特に驚くことはなかった。ほぼ同じ気持ちで「対象」として見ていた。問題は不倫相手の津川雅彦である。 公開当時は、下らなくて醜い、かつ汚い中年オヤジに見えていたのが、後年見ると、愛おしいとまでは言わないが、妙に、実感として理解できる男であり、しかもそのときの私は映画の津川の年齢をかなり大きく上回っていたのである。 さて、小池百合子である。女性としての対象で見ることが、いったい何なのか。政治家は、俳優ではないというけれども、実際の俳優が、レーガン、イーストウッド、シュワルツェネッガーから、チチョリーナ、三原じゅん子まで、いるではないか。 小池百合子の、「今日のマスクは少し大きい」とか、お洒落だとか、服装の着こなしはどうだとか、余計なところに目が行ってしまう。そして、会社内でも、一番の話題は、小池の顔と服装と「六七歳の」美貌であり、もう、映画や野球や酒などの楽しみの何もかもがどうでもよくなって、早く選挙でも来ないかなあ、といった状態なのである。 還暦過ぎた男たちが、地下のテレビの前で、アイドルを待ち構えているのである。 腹の奥から苦い記憶が込み上げてくる。 そこには、昔の私が映っている。 美しいマスクとともに。 (建築物管理) |
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