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評者◆秋竜山
見落としてしまうほど小さな画、の巻
No.3462 ・ 2020年09月05日
■有名な国民的漫画家、横山隆一先生は旅先などでファンからサインを求められる。わたされた色紙に心よく応じていた。御一緒させていただいた旅行などで、よく出くわした。その時、名前と同時に必ず「魚釣り」をしている画がそえられた。「フクちゃん」が竹ざおで魚を釣り上げたり、「デンスケ」が、タコを釣ったりしている画であり、ファンをよろこばせた。他の漫画家も画をそえた。私もマネしているわけではないが、画をそえる。画でなくネームだけではサインしたような気がしないこともあり、もらうほうも、そういう気持があるようだ。めんどくさくて画を描かなかった時など、「マンガもお願いします」などと、いわれてしまい、「めんどくさいなァ」と、思ったことが何度かあった。色紙の枚数がハンパじゃない。でも、持ってこられると描かないわけにはいかない。気が小さいからだろう。ある高名な漫画家にいわれた。「ファンの要求にあわせる必要はちっともないんだからね」と、いうことだった。たのまれたら、一枚の色紙に時間をかけて、じっくり描けばよい。一枚が描き上がった時、サイン会の終了時間となるから、それで終わればよい、とのこと。漫画家をみていると誰もがサービス精神がおうせいであるから、ファンに一枚でも多く手渡してあげたいという、もっとも漫画家自身もうれしくて、夢中になって描きまくるようなことになってしまう。それがいいのか悪いのかしらないが。数を多く描きまくると、その色紙の価値は、下がる。数が少ないと価値は上がる。このようなことはどのようなものにもいえるだろう。数が多いと、ろくなことがない。
もっとも、名画となると、そんなことはあるまい。サインするほうは、そんなことをかんがえているわけがない。若いころは、たのまれもしないのに、こっちから勝手に色紙に描いて、それをもらってもらうこともあったくらいだ。飲み屋などでヨッパラッた調子で、おだてられると、そんなことまでやってしまうものである。サインに釣りの画というのが描きなれているからだ。目をつむっていても描ける。怒る人が一人もいないということもよい。 宮崎法子『花鳥・山水画を読み解く――中国絵画の意味』(ちくま学芸文庫、本体一二〇〇円)では、 〈漁師は、名もない無辜の民の代表であり、隠逸思想の語らざる代弁者であり、また桃源郷に最も近い存在とみなされた。そして、その無名性ゆえに隠れた人材でもあり、また隠れ住む隠者の姿にもなりえた。隠逸、桃源郷、隠れた人材……漁師に託されたさまざまな意味は、実はいずれもどこか深いところで通じている。山水画のなかの漁師や釣り人は、単なる点景を超え、(略)彼らは、山水画が山水画であるために必須の点景としてそこに描き込まれているのである。〉(本書より) 文人画などの魚釣りの画を見ると、必ず小さく描かれている。舟の上で竹ざおで釣り糸をたれている。なぜ小さければ小さいほどいいのだろうか。虫めがねで見なくてはわからないくらい小さければ名画になってしまうから不思議だ。小さいほどよい。大きく描かれた釣りをする人の絵というのはあまり見かけない。山水画などで、釣り人の姿を見おとすくらい小さいのである。富士山の絵も、小さければ小さいほど、大きく感じさせる。それとは全然関係ないか。 |
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