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評者◆杉本真維子
泥団子考
No.3462 ・ 2020年09月05日




■梅雨になると、泥のぬかるみを思いだし、そこから唐突に「泥団子」へと行き着く。子どものころ、泥をこねて団子を作って、それを乾燥させてさらにまわりに泥をつけて大きくして、ということをよくした。あれは、私にとっては、遊びというより、「仕事」だった。泥団子職人。毎日、泥団子を作るために友達の家に出勤する。それを縁側の下に並べ、乾燥させ、数日待つ。すると、表面のところどころにツヤが出てくる。
 そのツヤの具合は、乾燥前にどれくらいよく表面を均したかによって違ってくる。光らせたい。かがやかせたい。光へのものすごい情熱。それがなんの役に立つのか、なんてまるで興味がない。ひたすら、光に向かって、団子を磨き尽くすのである。
 それはもう遠い昔の話、と思いきや、意外にもそんな感じはしなかった。泥団子が「詩」に変わっただけで、泥団子を磨くように、詩を磨こうとしている。そういう意味ではあまり成長していない。大人になったという自覚もあまりない。
 大人といえば、先日、電車の窓ガラスに映った自分をみて、なつかしいような、ふっと抱きつきたくなるような、ふしぎな感情をいだいた。そのあとで、祖母に似ていたのだ、と気づき、少しショック受け、以来、年をとる、ということについてよく考えている。
 私たちは、老化にせよ、成長にせよ、過酷な時の流れのなかで少しずつ姿を変えながら、「今ここ」で生きている。当たり前だが、お年寄りは今初めての「お年寄り」を経験している。見ず知らずのおばあさんなどは昔からずっとおばあさんをやっているような錯覚に、私などは陥ってしまうが、そのひともまた、以前は中年で、その前は若者で、そのずっと前は子どもであった。そのことにおののく。光陰矢の如しというが、時とはほんとうに「矢」なのかもしれない。
 帰宅してから、もう一度確かめるように、姿見の前に立った。そこにはもう祖母の姿は見つけられなかった。祖母どころか、今、そのことを考えている私自身の中身が、姿見のどこにも映らない、という当たり前のことを思った。
 ただ肉体だけの、心もとないひとりの女の姿をぼんやり見ていた。唐突にも、肉体の中身とは、光のようなものだろう、と思った。それも煌々とまぶしいものではなく、泥団子のツヤのような、にぶい光。ひょっとしたら泥団子とは、たましいのようなものかもしれない。







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