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評者◆稲賀繁美
個の喪失と文学的磁場の生成――テクスト遺産の顕現と変容を欧米の眼差しから吟味する
No.3461 ・ 2020年08月29日




■「空蝉」(ウツセミ)と表裏一体をなした。現実の裏には喪失がある。無常感が中世美学の基調をなした。「うつしみ」を「いつくしむ」心情も無縁でない。現世の所有に拘泥しても、それは明日には魂の抜けた空殻を残すだけ。その哀歓を和歌に託すと、押韻の唱和や縁語の反復を通じて、故人の霊に憑依される。それは能動としての「所有」possessではなく受動のpossessed。さらに和歌共同体に沈潜すると、作者の個人意識は消滅し、無名の集合意識の裡へと中和を遂げる。小泉八雲ことLafcadio Hearnが見た「のっぺらぼう」「日本人の霊の世界」である。
 作者という個人の人格は、ここでその輪郭を喪失する。もとより欧米語のpersonは一説ではギリシア語のprosoponに由来するが、これは舞台俳優が被る仮面である。果たして仮面は人格を隠すのか、反対に顕現するのか。どのみち表裏は虚実皮膜、人はそこで人格変容を体験する。和歌を発声する呼気spirareの裡に、過去の霊spiritoが乗り移る。「霊感」inspirationさらには「神的憑依」enthusiasmの神秘体験である。
 伝統の真正性authenticityが獲得されるのは、この相互作用の只中だろう。人はとかく現在に残された断片、毀たれた廃墟を透かして、過去の失われた栄光に思いを馳せる。始原にあったはずの「原本」originalは、それが失われて初めてそれと気づかれる。中国の書史では王羲之が尊崇される。だがそれは、原本が不在ゆえの倒錯である。唐の太宗は王羲之「蘭亭序」原本を自分の墓に合葬させた。ために王羲之の真筆は残らない。模写されて増幅を遂げた複製群copiesから遡って想定される「不在の原本」が、真正性の根拠となる。継承者の営みとは、起源を「無」に帰し、そこに遡及的に権威を据える作為であった。
 『源氏物語』は当時としては珍しく、著者の名前を今に伝える。紫式部日記に著者が証拠を残したからだ。この宮廷の女官は、「柏木」の巻で白居易から詩を引用した。だが原詩の勘所となる一行を、わざと脱落させる。その隠蔽された詩句は、物語全体の結構を集約する「二重の姦通」という秘密を宿していた。さらにウェイリー英訳はこの箇所全体を脱落させている。だが「渡り」migration途上の二重の意図的な喪失から、『源氏』は不死鳥のように翔たき、世界文学の金字塔となり、「文化遺産」の地位を得る。

*On Line Workshop「テクスト遺産の利用と再創造」早稲田大学国際日本学拠点SGU・総合人文科学研究センター・角田柳作記念国際日本学研究所、2020年7月18日での筆者の即興の総括commentより。発表討論者の皆様と、貴重な席に招待いただいたEdoardo Gerlini、河野貴美子・両教授に謝意を表する。







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