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評者◆睡蓮みどり
映画はフィクションだ。だけど……トレヴァー・ナン監督『ジョーンの秘密』、いまおかしんじ監督『れいこいるか』
No.3460 ・ 2020年08月15日




■何食わぬ顔でまた8月がやってきてしまった。ちっともうきうきしない8月だ。本当は来て欲しくないのだけど、来てしまったから仕方ない。とっくに今年も後半戦に入っているが、引き続きやる気が全く起きない。今年がずっと間延びしている。時間の変化を感じにくくなっているのは、もちろん誰もの意識を支配しているコロナのせいが大きい。映画館も未だにさあ行こうという気がなかなか起きない。いや、映画館に限った話ではなく、あらゆる欲求が薄くなってしまったような気がする。じわじわと精神的に追い詰められているような感覚だ。人間としてまずい。とはいえもう8月なのだ。8月は終戦記念の月だ。6日には広島に、9日には長崎に原爆が落とされた月だということも忘れるわけにはいかない。
 『ジョーンの秘密』はスパイものだ。スパイ映画といえば『007』シリーズを中心に、やっぱりドキドキするものがある。『チャーリーズ・エンジェル』が好きなので、やはり一度はなってみたいと憧れる。頭も冴えて、機敏な動きで敵を欺く姿は格好いい。密かにコードネームをつけてみたりしたことがある人も少なくないのではないだろうか。ドリュー・バリモアが好きだけど、なるならルーシー・リューになりたい。とはいえ現実世界のスパイ活動はそんな「格好いい」だけじゃ済まされない。実際に、スパイ活動がバレて処刑された人は何人もいる。
 この映画はドキドキ系のスパイものとはまた全然違う。主人公のジョーンはごくごく普通の女性として描かれている。恋するひとりの女性であり、知的かつ優秀な物理学の研究者だ。史実に基づいてつくられており、ジョーンのモデルになったのはメリタ・ノーウッドという実在する女性だ。イギリス人で、核開発の機密情報をロシア(旧ソ連)のKGBに流したとして、80歳を過ぎてからその事実が判明し告発された。本作の中ではジョーンの晩年をジュディ・リンチが、若き日々をソフィー・クックソンがそれぞれ演じている。
 なぜジョーンはスパイになることを選んだのか。広島に原爆が落ちる映像を見たジョーンが心を痛めるシーンがある。スパイになることを決める決定的瞬間だ。彼女はもう共産主義に憧れ理想を語る若者ではいられない。愛する人を裏切ることになろうとも、あまりにも恐ろしい現実を目の当たりにして、いてもたってもいられなくなる。もちろん、一歩間違えば、自分の命がなくなる。
 原爆は本当に恐ろしい。小学校の頃のトラウマといえば『はだしのゲン』もあるが、低学年の頃に読んだ絵本『ひろしまのピカ』の衝撃も忘れられない。みいちゃんという女の子の手からお箸が離れない。怖かったが、こうして大人になっても覚えているのは大切な体験だ。いまでもあの日の読書体験に感謝している。
 他に子どもの頃に起こった忘れられない体験といえば、地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災がある。ちょうどクラスメイトのかおりちゃんが神戸に引っ越したばかりだった。あのとき私はまだ小学校二年生だった。唐突に現れる、遠くないところにある死。それも個人の力だけではどうにも抗えないような、巨大な力で押し寄せてくる唐突な恐怖と現実だ。
 『れいこいるか』の主人公であるヒロイン・伊知子(武田暁)は、不倫中にラブホテルにいるときに地震が起きる。不幸なことにその地震のせいで幼い娘のれいこを亡くしてしまう。阪神・淡路大震災だ。夫婦にも別れがやってくる。それから23年。娘を亡くした夫婦の長い年月の物語を描く。
 変わっていくのは夫婦のかたちだけではない。周りの人間たちも、去っていったり変わったりする。伊知子は男をとっかえひっかえする。止まることを恐れるように、気ままに動き続けるのだ。それはどこかでじっと立ち止まって娘を思い出してしまうことを恐れているようにも映る。いまおかしんじ監督の描く女性は、いつも自由気ままな猫みたいだ。自由気ままといえば、もう一人重要な人物がいる。ひろしさん(佐藤宏)だ。彼は歳をとらない。子供のような大人で、そのまま変わらないでこの世界にいる。ひろしさんだけが変わりゆくこの世界の過去と現実とが地続きであることを思い出させてくれる。
 23年という月日の重みを感じさせながらも、時にコミカルで時にファンタジックに、時に核心に素手で思いっ切り触れながらも軽妙に時間が流れていく。阪神・淡路大震災の後に一度企画を考えたものの実現しなかったが、長年の月日を経て完成されたという。登場人物たちとの独特の距離感、近すぎず突き放しすぎず、けれどそこには切実な眼差しがある。親子3人で行った思い出の水族館でイルカショーを見た記憶は大切なものではあるけれど、思い出に囚われた人々の物語ではなく、あくまでいま生きている人々をカメラは捉えている。そして同時に、いまはいない人たちもそこに映されているのだ。少なくとも私にはそう見えた。下社敦郎が手がける主題歌も胸を熱くさせる。
 映画はフィクションだ。作り物だ。だけど映画の中に生きる人と同時に経験する行為でもある。時に、誰かの大切な記憶を自分の記憶のように辿って、それを忘れたくないと願うことは祈りのような行為に近いのかもしれない。
(女優・文筆家)







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