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評者◆寄稿 内藤朝雄氏
日本社会は変われるのか――「中間集団全体主義」という桎梏
No.3459 ・ 2020年08月08日




■新型コロナウィルスが社会に突き刺さった。
 社会は、A、B、C……とさまざまな構成要素がささえあってできている。あるいは、ときどきの構成要素の産出の効果が、別の構成要素の産出を導く連鎖が、社会というまとまりとして、わたしたちの目に映る。
 社会の構成要素Aだけが変わろうとすると、A以外のB、C……が変わらないように場の力を加えて元に戻す。
 構成要素Bだけが変わろうとしても、B以外のA、C……が場の力を加え、その編成の力が元に戻す。
 このおかげで、害が大きい、無駄である、残酷である、といったことが、長年にわたって存続してしまうことが、生じる。
 わたしたちの社会では、害が大きい、無駄である、残酷である、といったことが数十年にわたって指摘されながらも、変わらずにきた。経済的繁栄も近年破綻し、坂道を転がり落ちている。社会を変える必要があっても、上記の構成要素の編成が強力な復元力を有しているために、できなかった。
 このタイミングで、新型コロナウィルスが社会に刺さった。
 これは一国のできごとではない。全人類に起きたことである。
 新型コロナウィルスは全人類に、新しい社会編成と生活様式(ニュー・スタンダード)を要請する。これは逃れることができない変化への強制力である。そうしなければ大量の死者がでると予想されるからである。
 新型コロナウィルスの要請は、これまで変えることができなかった社会を、よい方向に変えるチャンスをもたらすかもしれない。あるいは逆に、これまでひどかった社会を、さらにひどいものにする、マイナスのチャンスをもたらすかもしれない。
 重要なのは、この社会変革を、どのような価値、どのような社会構想のもとに計画し実行するかである。また、人々のあいだでこのことをはっきりさせる、主権者としての社会的覚醒が必要になる。
 本稿では、この社会構想を示す。また、変革のための社会的覚醒の一助となることを期す。
 日本社会は、中間集団全体主義の編成をとってきた。中間集団全体主義とは、次のようなものだ。

各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂している場合に、その社会を中間集団全体主義社会という。(拙著 『いじめの社会理論』柏書房、同『いじめの構造』講談社現代新書

 戦前の日本は総力戦をめざすあたりから、国家の全体主義と中間集団全体主義の双方が強大になった。大日本帝国は満州を侵略し、そこでナチス・ドイツ(右翼系全体主義)と旧ソ連(左翼系全体主義)の社会編成方式を取り入れた純度の高い社会統制「実験」を行い、これをできるかぎり日本全体にいきわたらせようとした(代表的な人物が、あの、岸信介である)。これが現在にいたる「日本的経営」の起源となる。この戦前の原形が戦後冷戦構造下の激しい労使対立を媒介して、労使共に中間集団全体主義に収斂する方向に「磨きあげ」られた。この収斂が満州の「社会実験」以上の成果――昭和の高度経済成長期にだけ経済的繁栄に寄与し、現在では害、無駄、残酷のもとである「日本的経営」――をもたらした。(たとえば、小林英夫他『「日本株式会社」の昭和史』創元社)。
 また、現在にいたる、日本の学校の強烈な集団主義の源流のひとつは、上記総力戦のための、いわゆる「軍国主義」と呼ばれる、右翼系全体主義の社会編成にある(この情景を中沢啓治『はだしのゲン』〔中公文庫、汐文社など〕がみごとに描いている)。もう一つの源流は、戦後の一時期、冷戦構造のなかで強大なカウンター勢力となった左翼系全体主義の集団主義である(マカレンコ『マカレンコ全集』〔明治図書〕、竹内常一『生活指導の理論』〔明治図書〕などにみられる論理形式が、『国体の本義』〔文部省教学局〕、『臣民の道』〔文部省教学局〕などの論理形式と酷似している、というよりも、同形であることに驚かされる)。当時の活動的な人々の信念体系を独占する右翼系全体主義と左翼系全体主義の構造的カップリングが中間集団全体主義に収斂するエスカレートが、日本の学校の集団主義の原形をつくったと考えられる(これは筆者のオリジナルな仮説である。これについては現在執筆中の『学校とは何か』〔仮題、ちくま新書〕で詳しく論ずる予定である)。
 1945年の敗戦により、日本の国家全体主義は大きく衰退した。日本は国家というレベルでは、複数政党による民主的な選挙が行われ、(近年、言論の自由に関する国際ランキングは落ちる一方だが)おおむね言論の自由が保障されており、(現在、政権を握った右翼系全体主義勢力が破壊中であるが)三権分立の立憲制をとる先進国である。
 だが敗戦後の日本は、国のテーマを総力戦から経済的繁栄に移して、(軍部と天皇を主役から外し)学校と会社を基盤とする中間集団全体主義をさらに大きく展開し、極端なまでにエスカレートさせてきた。こうして日本は、会社と学校が、生活を隅から隅までおおいつくし、人間を奥深くから、容赦なく会社の色や学校の色に染め上げる社会になった。いわば、中学生は学校の共同体奴隷になり、労働者は会社の家畜(「社畜」)になったのである。
 戦後日本の中間集団全体主義は、便宜的に選択される束縛の項目やその程度に増減があっても、長期的に変わっていない。
 企業は、従業員の生活に介入し、学童を「しつける」ように細かな「生活指導」をし、徹底的な人格支配を「あたりまえ」に行う。
 バブル崩壊以前は、ある程度以上の規模の企業は、会社員を社宅に住まわせることが多かった。そこでは、しばしば、会社員の妻は上司の妻の家来か召使いのように扱われ、運動会やサークル活動も社内で行わなければならないといったことがあった。会社員の妻が、社外のサークルに参加したところ、総務部から「やめさせなさい」と命令されるといったことが報告されている(木下律子『妻たちの企業戦争』径書房↓社会思想社)。バブル崩壊後、企業は社員を囲い込むための社宅をまかなう資金がなくなった。だが、企業にあらわれる中間集団全体主義の姿は現在にいたるまで同一である。社宅ほど費用のかからない手段を用いて、同じ中間集団全体主義がいつまでも続く。
 上記『妻たちの企業戦争』(径書房1983年、雑誌記事初出は1981年なので、できごとが起きたのは1970年代かそれより以前)、熊沢誠『民主主義は工場の門前でたちすくむ』(田畑書店1983年↓社会思想社)、渡辺一雄『会社のここだけは知りなさい』KKベストセラーズ1989年、横田濱夫『はみだし銀行マンの勤番日記』オーエス出版1992年、宮本政於『お役所の掟』講談社1993年(会社ではなく役所のケース)、今野晴貴『ブラック企業』文春新書2012年、山下和馬『ロスジェネ社員のいじめられ日記』文藝春秋2014年、今野晴貴『ブラック企業2』文春新書2015年……と、年代ごとにドキュメントを読み進めても、職場にあらわれる中間集団全体主義の基本構造は同じである。
 中間集団全体主義の基盤となる企業の特徴は、メンバーシップ型雇用である。そこでは構造的に、次のような現実感覚がいきわたる。

良い商品や良いサービスを市場に提供して収益を上げることよりも、ひとりひとりの社員が、人格の深いところから会社のメンバーとして染め上げられた会社のモノであることを、仲間内で示し合う努力(そのようなフリをする精神的な売春に耐えること)が働くことである。

 この現実感覚は、企業を生産の場というよりも人間関係の政治の場にする。そして派閥や属人主義という企業にとって破壊的な要素が大きくなる。
 2020年4月9日付『朝日新聞デジタル』は、パナソニック産機システムズの人事課長が内定者にSNSで口汚い罵倒をくりかえし、自殺に追い込んだ事件を報道している。
 記事には、「人事課長は書き込みが少ないといった理由で内定者をSNSから排除したり、『無理なら辞退してください、邪魔です』などと内定辞退に言及したりしたほか、『ギアチェンジ研修は血みどろになるぐらいに自己開示が強制され、4月は毎晩終電までほぼ全員が話し込む文化がある』などと入社後の過重労働を示唆したりしていたという」とある。
 会社員が「社畜(会社の家畜)」と呼ばれる日本企業では、罵詈雑言やいわゆる「洗脳研修」による人格支配は、ありふれた光景である。
 このケースで注目すべきことは、パナソニック産機システムズは産業機械の会社であるにもかかわらず、報じられた人事課長によるハラスメント言動のなかに「機械」という語がみあたらないことである。示唆された「過重労働」のなかみは、徹底的に告白をさせられるとか、「お話し会」を延々とやらされるといったことであって、機械を扱う本物の労働ではない。被害者を自殺に追い込むほど過重だったのは、労働ではなく、他人から態度や心をいじくりまわされる奴隷ごっこだったのである。
 もちろん、このような研修をしても企業の収益にはならない。新入社員を会社の色に染め上げる奴隷ごっこに熱中しているだけである。日本企業の生産性が低いのは、こういうことをしているからでもある。
 中間集団全体主義は、人格支配の徹底なくしては成立しない。人間を、いわば魂の深いところから会社と学校の奴隷にしなければ「日本的経営」や「日本的集団主義教育」を維持することはできない。
 人間の尊厳という価値を基準にすれば、中間集団全体主義の社会編成は、あってはならない。それは有害で残酷である。人間を会社と学校の奴隷のような状態におとしめることは、人権侵害どころか、人道に反する犯罪であると言ってもよい。
 しかし、これまで中間集団全体主義は、経済的繁栄に大きく寄与するという理由で、「しかたがない」とされることが多かった。現在でも、このように誤解している人は多い。
 メンバーシップ型雇用によって「人間丸ごと」が会社に吸収され、長時間労働、過労死リスク、サービス残業といった災いが降ってくる生活は、従業員に大きな犠牲を払わせる。そこでわたしたちは、従業員にこれだけ大きな犠牲を払わせるの「だから」、企業はよっぽど大きな収益をあげているのだろう、そして、よっぽど経済効率がよいのだろう、と想像してしまう。
 だが、事実は、正反対である。
日本生産性本部「労働生産性の国際比較2019年」によると、日本の時間あたりの生産性は、OECD36カ国中21位であり、米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、日本の主要先進7カ国中では最下位である。
 日本の経済は、近年、驚くほど小さくなっている。
 このことをビジュアルに示す動画がある。これは、世界の富のなかでそれぞれの国が何割を占めているかを、1985年から2015年までの時間の流れにそって動画で示したものである。
 [Watch 35 Years of the World’s Economy Evolving as a Living Organism]
 その2019年分が以下である。
 [Total Wealth by Country in 2019]
 これを見ると、日本の経済が、すさまじい勢いで転落の一途をたどっていることがわかる。
 IT化、グローバル化などで、世界の産業と経済は大きく変わった。どのようにすれば収益があがるかという様式が変わった。だが、日本の社会編成、すなわち企業経営(社畜制)と学校教育(集団奴隷制)を基盤とする中間集団全体主義は、変わることができなかった。高度経済成長期には経済的繁栄につながったかもしれない特殊な社会編成が、新しい地球規模の経済システムのなかで、桎梏(手かせ足かせ)になってしまった。そして現在、日本の経済は坂を転がり落ちるように縮小している。
 ここに至って、中間集団全体主義をとる日本の社会編成は、①人間を不幸にする(会社と学校の共同体奴隷にする)、かつ、②人間を貧乏にする(現行の資本主義に適合しないので、お金がもうからない)、という二重の罪科によって、いわば死刑判決を下されたといってよい。あるいは、①人間の尊厳価値と、②経済的繁栄価値の両方からノックアウト負けを宣言されたともいえる。
 だが、それにもかかわらず、冒頭で述べた社会の復元力が、無駄で、有害で、残酷なしくみを残存させてきた。
 そこに新型コロナウィルスが突き刺さった。それは、非接触というしかたで社会編成を変えなければ多くの人が死ぬという事態を突きつけた。
 ここで、日本が戦争に負けたときのことを考えてみよう。日本は、戦争に負けても負けなくても、極端に貧しい小作人と地主という社会のしくみを変えなければならなかった。女性参政権も必要だった。だが、社会が硬直していてそれができなかった。
 もちろん、戦争に負けるという悲惨はないほうがよいに決まっている。しかし戦争に負けるマイナスに付随するプラスは進める必要がある。貧乏な小作人が娘を身売りすることがなくなり、女性が参政権を手にしたのは、アメリカとの戦争に負けたおかげだ。戦争に負けなければ、このようなよいことは起こらなかった。
 同じことが、新型コロナウィルスについてもいえる。
 新型コロナウィルスが人類を脅かしても脅かさなくても、もともと日本は社会編成を変えなければならなかった。ウィルスから人類へのおびやかし(terror)を奇貨として、①人々を会社と学校の共同体奴隷状態から解放して幸福にし、かつ、②経済を現行の資本主義に適合するタイプに変えて繁栄させる、社会編成の変化をもたらすことができる。それは、すでに死んでいるはずの、無駄で、有害で、残酷な社会編成のゾンビを墓穴に突き落とし、わたしたちの望ましい未来を開く、「最後の一押し」になりうるのだ。
わたしたちは注意深く、抜けや落ちがないように、この「一押し」のデザインを完成させなければならない。
 メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用への変更は、国によるセーフティネットの拡充とセットにしなければならない。これは人間の尊厳という価値基準点からは絶対的な要請になる。と同時に、セーフティネットの拡充は、一部富裕層に限定されない幅広い層の購買力をバックアップすることで、商品やサービスの流れをよくするという資本の論理(人間にやさしい資本主義)にもかなっている。
 財界と政府だけにまかせて放置すると、セーフティネットを最低限におさえて、ジョブ型雇用への転換をはかろうとするかもしれない。わたしたちは力をあわせて、いかなる価値を重視し、いかなる社会が望ましいかという社会構想をしっかりもち、新型コロナ対策をきっかけに社会をデザインし直す仕事の主役にならなければならない。主権在民なのだから。
 リモートワークは、今まで、本当はやらなくてもよかったことに、いかに無駄なコストをかけてきたかを思い知らせる。リモートワークでできる仕事は、出勤せずに好みの場所で、リモートワークで行うようにする。企業は会議を出勤して行うことを禁止してもよいぐらいだ。また、秘密保持などの点で、リモートワークのしくみを洗練させていく技術革新を、重点的な産業技術の発展分野とする必要がある。今までリモートワークでできなかった業務を、技術革新によって、できるようにするのである。
 それと同時に、宅配、コンビニ、介護、看護、保育など、リモートワークにすることがむずかしい社会的インフラに必須の職種は、最低賃金を上げる。
 もうひとつ、注意深さを要求される重要項目を忘れてはいけない。
 新型コロナに便乗して、独裁政権をつくろうとする動きが、いくつかの国である。成功したところもあれば、危うく阻止されたところもある。
 残念ながら、わが国の政権与党は立派とはいえない。厳しい監視が必要だ。
(社会学)







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