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評者◆睡蓮みどり
「以後」の世界を生きてゆく――原一男監督『れいわ一揆』
No.3444 ・ 2020年04月18日




■すでに「以後」の世界を生きている。正確にいつ、どのタイミングで、「以後」になったのか。日々刻々と状況が変わってゆくなかで、それを明言するのは難しいが、私たちはもう二度とコロナウイルスの存在しなかった世界に戻ることはできない。世界中で蔓延するこの恐怖は、これまでの日常をいとも簡単にぶち壊してしまった。世界中の大半の人が,コロナウイルスのことを考えない日はないだろう。ウイルスが目に見えない恐怖である一方で、目に見えて恐ろしいのは日本の政治家の対応だ。その横暴ぶり、レイシストぶりが酷いのはいまに始まったことではないが、この期に及んで、生命の危機に脅かされているなかで、現政権の愚行になぜここまで辟易しなければならないのか、正直うんざりする。具体的な決断が求められているが、どれも耳を疑うようなことばかり。間もなく緊急事態宣言がなされるらしいが(※4月7日執筆時点)、一方で補償については歯切れが悪く曖昧だ。和牛の次は効果のなさそうな布マスク二枚って。こんなことのためにいままで税金を支払ってきたわけじゃない、と思うのは当然だ。署名の声も届かず、自分たちは正しいと聞く耳を持たない相手に対しては暖簾に腕押し状態で、一体、何と闘っているのか、正直もうよくわからない。

 原一男監督の『れいわ一揆』は、時期的に言えば「以前」に撮影された映画だ。それはどうあがいてもそういうことになる。去年、2019年に山本太郎氏が立ち上げた新政党・れいわ新選組。昨年の夏の参議院議員通常選挙のことは記憶にも新しいだろう。映画の題材として、一つの政党を追うというのは非常に覚悟のいることだ。その理由の一つには、映画館で政治的な題材の映画を上映するのは、他の娯楽作品に比べると、簡単なことではないというのがある。以前、私が出演した憲法第九条を題材にした映画が、映画自体の主張として護憲派なのか改憲派なのかどっちつかずという理由で劇場側に断られたことがあると監督から聞いた。あからさまに護憲だったらOKということだった
らしいが、どこまでが本当かはわからない。いずれにせよ、政治色が濃いとされるものには慎重になる風潮がある。『れいわ一揆』は選挙自体を追っている記録であることは一つの側面としては事実だ。一方で、れいわ新選組に統一された思想があるのかといえば、ない。候補者それぞれが、それぞれの主張をしている。当選した舩後靖彦さんと木村英子さんのお二人も、山本太郎氏の代弁者ではない。そんなわけで何かの思想を宣伝するプロパガンダになりうるか、というとそもそものところでなりえない。現首相のことを「leader(リーダー)じゃなくてreader(ただ原稿を読む人)」と言っているのをツイッターで見かけて、まさにと思ったわけだが、そういう意味ではその真逆をいく人々が候補者となった。当時メディアからは見事に黙殺されていたが、たまたま通りかかった山本氏の演説に集まる人々が聞き入る姿は忘れがたい光景である。多くの人が足を止め、耳を傾けたのは、発言に責任を持った、それぞれの経験や怒りから湧き上がるその声を聞くためであって、壊れた人形のように繰り返す無意味な言葉を聞くためではない。血の通った普通の声なのである。特に、元派遣労働者でありシングルマザーでもある渡辺照子さんの圧倒的な演説には胸が熱くなる。

 この映画がイコール原一男監督自身の政治的主張ではない(だろう)ということは大きい。以前、本連載でほんの少しだけ森達也監督のドキュメンタリー映画『i―新聞記者ドキュメント』に触れた。なぜ私がその作品に惹きつけられなかったのか、答えは簡単で、「作り手の主張」が強すぎるからだ。上映後のアフタートークで河村光庸プロデューサー自身が、本当は最初に伊藤詩織さんの『Black box』を映画化したかったが、そのタイミングでは問題があり実現しなかったと明かした。つまり、意地悪な見方かもしれないが、そもそも方向性のレールはガッチリと敷かれていたことになる。大きな権力と闘う女性が対峙する同調圧力。きれいにまとまりすぎているように感じた。『れいわ一揆』はその点、非常にあやうい。そもそもこの映画を撮影することになったのは、原監督の番組「ネットde CINEMA塾」のゲストに、東大教授で女性装の安冨歩氏がゲスト出演したことがきっかけとなっている。現在もYouTubeにあがっているので、本作の前にぜひ見てほしい。原監督が根掘り葉掘り質問し、対して安冨さんが軽快に答える。前半は、なぜ女性装をすることになったのか、セクシャリティ自認と母親との関係について。そして、後半はなぜ東松山の市長選に出馬したのか。「選挙」の話になる。原監督は安冨さんにまた選挙に出てほしいとそそのかす。出たら密着させてねと約束までしてしまう。そしてそれが、本当に実現してしまったわけだ。
 そんなわけで『れいわ一揆』は、原監督が興味を持った安冨氏が、たまたまれいわ新選組に出馬し、その選挙活動を追ったドキュメンタリーとなった。れいわ新選組の主張に監督が賛同しようがしまいが、安冨さんがここから出馬する以上、この政党を追うことになる。当然、私たちはその選挙の結果を知っている。安冨さんは選挙で負ける。それが結果だ。ただ、単なる結果であって結論ではない。ここが面白い。CINEMA塾の対談でも「この選挙の目的は勝つことではない」と言っていた。政治家になること自体が目的ではないのだ。

 この映画は約4時間あるのだが、インターミッションを境に前後で全く違う色合いになっている。前半、私はかなり戸惑いながらこの作品を見ていた。それは、「政治家としての安冨歩」という存在に対する違和感だった。街頭演説に馬を連れて歩き、音楽を演奏し、歌って、踊って、子どもと話す。牧歌的だがマイペースすぎて、選挙活動としては弱いのではないかなどと少々不安になってくる。繰り返し主張する「子どもを守る」の意味も、その真意がよく理解できないまま、ざわざわとしたものが残される。いよいよ後半になり、投票日が近づいてくる。映画に流れる速度が変わる。畳み掛けられ、あらゆる意味が崩れていく。はっとする。私自身が完全に、「選挙とはこういうものだ」「政治家ってこういう人たちだ」と無意識に思い込んでいたことに気づかされ、型にはめて世界を見ていたことが恥ずかしくなり、絶望的な気持ちになる。散々、型にはまってしか動けない政治家をバカにしていたくせに、私は私で有権者という型にはまっていたわけだ。「政治家」なんてものは虚構にすぎない。そして時代とともに、存在の仕方が変わる可能性を、私の思い込みが危うく邪魔するところだった。CINEMA塾での自身の発言を、まさに身を以て体現しているのだ。安冨さんも、原監督も。

 そしてこの映画が公開されるのは「以後」の世界である。「以後」の世界では以前に増して、弱いものが顕著に命の危機にさらされて見捨てられていく。以前のひねくれた私は、「子どもを守る」とか「子どもたちのために」という言葉が、綺麗ごとで、大人の文法のために利用されているのだと、ついついうがった見方をしがちだった。薄気味悪ささえ感じていた。安冨さんがいう「子ども」とは、まだ選挙権がないかもしれない実際に年齢的に幼い人たちのことをさしていて、それが未来の可能性であることはわかる。では私たちはすでにその対極の大人としてしか存在しえないのか。だんだんと映画を見ながら、自己のなかに未だ居続ける「子ども」に対しても語りかけられている言葉なのだと気づく。絶対的に傷つけてはならないもの。守らねばならないもの。ないがしろにされてはならないもの。脅かされることなく生きてゆくこと。生命そのものへの問いかけだと気づく。利権とお金が中心に動く悪性腫瘍のような「政治」を取り除くことは簡単ではないことは誰しも知っているだろう。それでも始まってしまった「以後」の世界を生きてゆかなければならない。原監督と安冨さんの出会いは、まさに奇跡としか言いようがない。この映画にはかつてあった何かではなく、これからのことがすでに映っているのだから。
(女優・文筆家)







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