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評者◆稲賀繁美
文人政治家の思想を筆跡から解析する――郭沫若の思想遍歴と書体意識との関わり
No.3440 ・ 2020年03月21日




■文人政治家、郭沫若(1892‐1978)は、1918年には九州帝国大学医科大学に進んだ。1926年に発表した「革命与文学」は、革命文学の嚆矢と評される。解放後は中華人民共和国の建国に参与。副総理、中国科学院初代院長、などを歴任する傍ら、1963年には中日友好協会名誉会長に就任。「郭体」と呼ばれたその書は北京駅正面看板や、中国銀行の表記に残る。
 『書論の文化史』(雄山閣、2010)、『中国政治家と書』(同、2017)、『書と思想:歴史上の人物から見る日中書法文化』(東方書店、2019)などの充実した著作のある松宮貴之は、「郭体」を7期に分け、白話体と文語との競合を解析する。この貢献は、中国の学会においても高い評価を得た。
 郭沫若の書体には金石学の素養が生かされ、「碑学派」と紙本墨筆の「帖学派」との学説史上の対立が裏打ちされている。阮元(1764‐1849)の「北碑南帖」との認識や「貶南尚北」の価値観が、清朝支配への隠れた抵抗の隠喩をなすとは、松村茂樹の説だが、松宮はそれが郭の思想的骨格たる「経世致用」に接続することを解明した。
 松宮はさらに、郭沫若にいたる「書を通じた思想史」を有機的に浮かび上がらせる。すなわち包世臣(1775‐1855)、沈曽植(1850‐1922)から康有為(1857‐1927)、梁啓超(1873‐1929)を経て、日本への亡命経験のある羅振玉(1866‐1940)、王国維(1877‐1927)あるいは中国哲学を基礎づけた胡適(1891‐1962)へと至る歴代の思想家の書の系譜のうえに郭沫若を位置づける。とりわけ郭の胡適批判は、中国思想の近代化の屈曲を際立たせる。
 とともに林則徐(1785‐1850)、曽国藩(1811‐1872)、李鴻章(1828‐1901)、黎庶昌(1838‐1897)、呉汝綸(1840‐1903)から「満洲國」初代国務院総理を務めた鄭孝胥(1860‐1938)に至る政治家・外交官たちの書を取り上げ、かれらの日本との関わり(日下部鳴鶴、副島種臣、森塊南、清浦奎吾、宮島誠一郎、犬養毅ほか)にも周到なる言及を怠らない。
 さらに続く世代の斉白石(1863‐1957)、中国共産党創設に関与した陳独秀(1879‐1942)、文学者の魯迅(1881‐1936)を経て、郭とも盟友であった郁達夫(1896‐1945)らによる白話体の導入に伴う価値観の転換は、現代中国の書体をおおきく変貌させることとなった。
 郭沫若の思想形成と変遷についてはどうか。日本留学期の郭はゲーテに照らして政治家・孔子像を構築する一方、スピノザの「唯心論」に接し、王陽明に汎神論的傾向を認めた。さらに陽明学に基づき宋学を一蹴し、蒋介石(1887‐1975)と思想的親和性を強めた。だが北伐以降、日本に亡命した郭は、唯物論へと傾き、遂には「修身斉家治國天下」をペテン(「騙局」)、蒋介石の「正中主義」を「資産階級革命」とみて、これと決別するに至る。
 民国抗日期以降に関し、本論文は郭沫若の残存する詩作の全貌復元を試みる。「新詩」と「旧詩」、詩と詞での字体の使い分け、文語の古詩筆写における音韻意識、平仄と字体との連関、署名字体の連綿への変化などの分析には、古典と現代中国語に通じた書家ならではの力量が発揮される。
 光復・解放後から文化大革命期、郭の晩年へと、世相に伴い書風も変貌する。「もっとも見事に世相を体現した」一個人の筆跡からは、現代中国の思想闘争の現場が蘇生する。だがそこでは書と歴史との矛盾や亀裂は却って消去される。文革の犠牲となった二人の息子の去就、破棄された詩作や揮毫、反動と看做された王羲之の「蘭亭序」を智永による偽作と断じた郭の学説の政治性などが、さらに問われよう。
 最後に、文献学の技術面では、複製図版の漢字読解や中国語原文の解釈上の問題点、中日両国での専門用語の不一致、肉筆と活字製版との異同、繁体字と簡体字、横書きと縦書きの齟齬など、既存刊行物の本文校訂の不備も吟味される。本博士論文が日中文化交流への試金石として有効な所以である。

※松宮貴之『近現代中国の「経世致用」思想と書法への展開――郭沫若を中心として』総合研究大学院大学・論文博士(学術)申請論文、2019年12月27日に審査。2020年3月1日の文化科学研究科教授会にて承認。複製図版完備の単行本としての刊行を期待したい。







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