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評者◆凪一木
その37 「這い上がれ」の正体
No.3438 ・ 2020年03月07日
■ビル管の世界は、ピラミッドの最底辺を形成し、かつオーナーから最下層の兵隊に至るまではっきりと、序列社会であり、社内でもその色分けは著しくしっかりと、あらゆる面で差別、区別、分別されている。
下請けを見下す社員がいる。下請けに限らず、貧乏人を見下して見る態度。 頭が悪い、容量が悪い、身長が低い(あるいは高い)、器量が悪い、病気、障害、不運、境遇、それらを馬鹿にする奴。そいつがどれほどにも優れていない場合も多い。 凄い給料をもらっていて、知らぬ者のいない会社の部長クラスの男を知っている。子供の大学入学祝いに「黒のベンツを買ってやった」と威張っていた。タクシーに一緒に乗った時、中国人の運転手に対し、そこで豹変し悪態をつく。見苦しいことこの上ない。 「あいつら、死んでも法で争えないだろう」 レストランで、給仕相手に、横柄極まりない威張り方をした男など、これまで相当な数を見て生きてきた。もう付き合わない場合と、可能性のある人間なら、「恥ずかしい行為である」ということを年上であれ、気付かせるような態度や苦言を放つ。どっちにしても、いい気持ちはしない。 彼らは、犯罪に近いことをしている。かつ、それが犯罪になっていない。少なくとも捕まっていない。そういうこの国の仕組みに乗って、そういう男(女)たちがいる。 「器の小さい人間がそういう態度を取る」と言う。だが、そんな言葉だけで納得してそれで終わりというわけにはいかないだろう。実害については、回復せねばならないし、第二第三の被害者を作りたくない。できることはやる。注意する。或いは、少しばかりずるい手段を使っても、注意喚起する。 それでも現実に、そういう者たちが野放しになっている。一部上場企業であろうが、公務員だろうが、その企業なり国なりが認めているということだ。もっと言えば、国民自体が選挙で代議士を選んでいるが如く、見て見ぬふりをしている。私もその一人と言っても良い。 少しでも(自分の中の悪や誘惑も)見逃すまいとしたら、なるべく意識して生きることだ。そのためには、あまり忙しく生きていると、見失う。忙しい奴が気にしないでやっている場合もあるし、悪意に満ちている自分にすら気づいていない忙しさの場合も多い。 サラリーマンというのは、その温床だと私は今、身を持って体験し感じている。忙しさは残酷だ。他人に対してはもちろん、自分に対しても最悪のプレゼントをしている。たとえ身体や精神を患う結果となったとしても。他人に対しては、ただただ残酷だ。振り返ってもらえない家族とか、在り来たりの付き合いしかされない、しない友人とか、言ってみれば、そういうものだ。その結果、赤の他人にはさらなる残酷が待っている。その表れの一つが見下しである。 他人を見下さないで乗り切ることのできる残酷さはあるのだろうか。やることが多いと優先順位がつく。友達の多い人ほど、一部の者には配慮が行き渡らない。核心よりも周縁との付き合いが薄くなるのは当たり前だ。 ただ、何かに自信を持ったり、大金など獲得したりしてしまうと、舞い上がらない者はいない。つまり下品な人々から人気が出る。その人気を冷静には見られず、下品な人に対する態度と同じことをそうでない人にも向けて行う。多分、下品な人たち(人はほぼ皆持っている)の後押しがこの「見下し差別」行動の元凶だ。だが下品は下品なのだ。 職業に恵まれて「仕事」をしていようが、金を持っていようが、それだけで人は寄ってこない。そんなものに付いてくるのは下品だけだ。その人が闘っているかどうかで付いてくる。とは、尊敬する知り合いの人からかつて呑んでいて聞いた言葉だ。つまり、闘っていれば、たとえ負けて(闘いは多くの場合負けることのほうが多い)も、迎え入れて(待っていて)くれる、というのだ。その代り、闘っていない奴からは、人は去る。 下請けを見下した時点で闘って生きていないことの証明でもある。仕事というものへの誇りがない。そして侮辱された側は許してはいけない。単に暴力的に(映画の主人公みたいに)戦うのではなく、とにかく許さないという態度を自らの中に持ち、時にはずるく、時には不器用にでも表明して闘う。闘い続ける。 ザ・モッズに『ガマンするんだ』という曲がある。その曲を演奏し始めたら、観客の一人が叫んだ。「嫌だ」と。森山達也は演奏を止めた。 下請けを頼むということは、頼む側は自らの能力や時間や金額に見合わない等の理由で「出来ない」から頼む。下請けがいなければ「出来ない」のだ。社員がいなければ会社が成り立たないように、この強みを忘れてはいけない。ガキ大将がいじめる対象を探しているかのように、赤字の仕事を下請けに押し込んでくる。私の今いる会社のパワハラややる気のない体質などの元凶は、この構造にあると言っても良い。抑圧の大きいところではいじめも多くなる。特に日本の役所も企業も極度な閉鎖社会であり、地下のビル管はその最たるものであろう。ゆえに、自分が抑圧されていることの「憂さ晴らし」としてより弱い者へのいじめが横行する。子供の世界もその縮図であり、大人の真似だ。 こういった大人たちを多く抱えている組織や制度の病の根元は、精神的に自立できていない(子供のまま)ことと、地下と昼夜をまたぐ、時間空間的に世界が見えていないことによるもので、ビル管はその最大のサンプルであろう。 自立のためには、傷を負わねばならず、世界を見るためには、自分と隣人を厳しく見ることでリアリティを獲得する。 いじめが横行する社会というのは、そこにいることで多くのストレスを感じるが、かといって逃げ出してしまうほどでもない、というような状況でこそむしろ生まれる。それこそがビル管という、曖昧で、一見「楽」で、いくらでも厳しくも過酷にも危険にさえ出来る世界に特徴的に現れるものとも言える。下請けが頼りにされているかのような錯覚。どこかで甘え合っている社会である。 それをいったん壊さなければ、自立はできず、世界も見えない。彼らの後追いをして、卑屈となってはクセになるし、後になって心にも傷を残す。 向こうは励ましのつもりだったのだろう。妙な言葉を掛けられた。 「這い上がりなさいよ」。 (建築物管理) |
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