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評者◆平井倫行
胸いっぱいの愛を――今道子展(@東京銀座・巷房、2019年11月18日~30日)
No.3434 ・ 2020年02月08日




■地に足つけて、しっかり日常を生きるというよりも、今でもそうなのですが、幻想のなかに生きているような、夢のなかにいるような生活だったと思うのです。同時に、澁澤は毎日の暮らしをとても楽しみ、大切にした人でした。
澁澤龍子

 遊園地から帰りたくないと思ったことはないだろうか。
 昨年十一月、今道子氏による写真展が都内のギャラリーにて開催されていた。
 今回の展示では、北鎌倉にある異端の文学者・澁澤龍?の邸宅で撮影された新作を中心に、居室に座る人形作家の四谷シモン氏や、蒐集された数多のオブジェ、そして背後に佇む龍子夫人の影像などが、年数を経たビルの迷宮的構成の中、あえて錯乱した動線のもと展開されていた。
 昭和五十三年頃から、絵画や版画、コラージュに対する知識を下地に写真を学んだ今氏の作品とは、魚や果物といった食物によって、日常の生活風景や用具をまるで異質なものへと変形させたり、あるいはその逆に、生物の不可思議な様態を独自の静物的奇想によって、新たに創造すべきオブジェとして、印画紙に定着してみせる。それは時に人をして、どこかにいる誰かの悪夢に迷い込んだかのような形而上学的な不安を喚起し、その密室や暗号、事件現場を思わせる血と謎の匂い、死と解剖の印象をとどめる表層的空間においては、皮膚感覚を含めたあらゆる五感、身体の感情が、平生の日常では保たれている二重化された意味の虚構性を剥ぎ取るポエジーの遊戯として動員される。イメージにより織りなされた、この砂糖菓子のような狂気は、現実の背後に秘匿された世界の断面図や、人間の情念の実相を炙り出す、ある日の少女の、色褪せたモノクロームの夢なのである。
 鎌倉に生まれ、また長く在住し、龍子氏とも交流がありつつも、今回あえてはじめて澁澤邸を撮影の場と選択した必然について、今氏はあたかも澁澤氏の体内といった様相を見せる屋敷が有す停止した時間性を理由の一つとしてあげており、事実その空間は現在なお夫人の手により、当時の空気が、まさに生前のまま保存されている。
 日本幻想文学の旗手として、伝説的な奇行が強調されがちである澁澤氏には、しかしまた同時に、穏やかかつしなやかな生活と日常に対する、真摯な情愛が存在していた。
 巷間、時に人は犯罪者や異端者のことを「刺青者」と称すが、ここで未必の前提とされる反社会性や非日常性という概念にも、その実は様々な意味合いがあり、それと同様に、刺青者達にも多く、人々が共有するのと何ら変わることのない、日常性や生活が存在する。今氏が被写体としてしばしば選択するのは、食物や衣服、また居住空間(家具)といった「衣食住」に関係するもので、それは即ち生活そのものの謂いであるが、しかし写真家は視点の錬金術によって、生活の領域と魔的なるものとの位相を「その場のままに」反転してみせる。
 ここにいながらにしてここを出ていること、その現実と幻想、日常性と非日常性の極めて危うい均衡の内在化、境界性の無化について、美術史家の伊藤俊治氏はかつてホイジンガを引きつつ「聖なる遊戯の奇妙な産物」と今氏の感受性を評したが、これは澁澤氏にとってのオブジェの哲学にも、一脈通じた論点を有していることであろう。
 今氏の作品が基本的に生ものを素材とし、それ故にそのオブジェとしての状態に、構造的限界、時間的な制約(賞味期限)を設定しているように感ぜられる点も、忘れてはなるまい。元来写真とは、それ自体が時間概念と無縁であり得ぬ芸術形式であるも、今氏の作品世界にはいわば、こうした「停止された賞味期限」とでも述べるべき矛盾、皮肉が、意識的無意識的な仕方で、しかし極めて重要なファクターとして要請されているように思われる。剥き出しにされた、極めて「通俗的な」生の現実と、義務や常識という社会規則を敬いながら日常を重ねつつ、それに決してとどまることの出来ない人間の根源的衝動、その抗い難い欲望を「一時」作品として芸術化、先鋭化してみせること、今氏は近年、それをある種の「贖罪」と考察する。
 時代が頽廃、酩酊の美学を過剰に抑圧し、経済性の法則を無軌道に主張する時、遊びの領域は静かに、その魔術的な光輝を強靱なものとする。澁澤氏はかつて自身のオブジェ愛に対し、それがいかなる意味においても有用性、生産性のモラルに資するものでないことを重要視したが、今回、今氏により撮影されたシモン氏と龍子夫人、そして作家が常に身辺に置いた、龍?の領土の象徴とすべき人形のポートレートに目立つ「目玉」と「視線」のモティーフは、あたかも時代の貧困を逆照射する「見つめ返す目」として存在しているように感ぜられる。

 「強いて言えば 鳥のような目蓋が欲しかった。」(『Michiko Kon』)

 全ての人どものみならず、価値や精神、幸福な日常さえも、一切が過ぎ去らぬなどということがあるであろうか。もとより遊園地に住むことは出来ないが、しかし遊園地から帰りたくないという願望と、遊園地に住みたいという願望は、似ているようで異なる。
 お伽話の必要性とは、それ自体がナンセンスの議論に過ぎないとしても、とはいえ、望むならば、遊園地にはまたいつでも行けばよい。
 今年も澁澤邸では一月二日、盛大な新年会が催された。
(刺青研究)







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