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評者◆稲賀繁美
日本現代文学の英訳刊行――その舞台裏と思わぬ波及効果
No.3424 ・ 2019年11月23日




■第二次大戦後、英語圏では日本文学の翻訳・刊行が盛行を見せる。事業の中核を担ったのはクノップフ社Knopf。同社旧蔵資料や、やがて著名な翻訳者となるサイデンステッカーE. Seidenstecker他との書簡を探ると、舞台裏が見えてくる。川端康成のノーベル文学賞受賞も、この翻訳出版企画が当初から目論んだ成果の、帰結のひとつだった。片岡真伊の博士論文はここに着目した。
 文学の翻訳研究では、誤訳探しが横行する。だが誤訳は純粋に個人翻訳者の責任だったのか。翻訳プロジェクトには、責任者ハロルド・シュトラウスHarold Straussが居り、その背後には、閲読者や助言者などが関与する。プログラム第1作は大佛次郎『帰郷』(英訳Homecoming,1955)。その「序文」には、鶴見祐輔の『母』戦前期の英語版序文にチャールズ・ビアードが盛った観察が生かされている。これだけでも大発見だが、日本小説の特異性を事前に説明するこの配慮は、かえって読者の反発を招いた。第2作目の谷崎潤一郎『蓼食ふ虫』(Some Prefer Nettles,1955)では、原作では読みどころの家族会話が、英訳では話者不明で混迷する。登場する犬が「叔父さん」に変身を遂げるという、傑作などんでん返し(稲賀の解釈)は、削除されて蒸発した。英訳が反復を厭うがゆえの悪しき副作用である。日本語「会話」と(身分性別が希薄な)英語dialogueとは等価ではなく、翻訳を無事に透過しもしない。大岡昇平『野火』(Fires on the Plain,1957)では、複数の時間が交錯する原作の伏線や結構が大胆に整除され、大岡の不興を買った。登場する精神科医の専門的言説は、なぜか英米訳では忌避される。日本の現代小説にそんな西洋医学的蘊蓄は期待されないらしい。
 なぜ原著は変貌を遂げ、原典とは乖離した英語訳はいかに伝播したのか。谷崎潤一郎『細雪』(The Makioka Sisters,1957)には有名な「蛍狩り」の場面がある。川の両岸を交錯する複数の声が現在と過去を自在に行き来して幻想的な叙述だが、これは英文法上に大混乱を惹起し、閲読者は翻訳者を無能呼ばわりした。題名が『蒔岡姉妹』へと改称された舞台裏の解明も、本論文のお手柄。トーマス・マンの『ブッテンブローク家の人々』などへの類推が読者の関心を引くことが決め手となる。川端の『千羽鶴』(Thousand Cranes,1964)の表紙絵では、折鶴か俵屋宗達の意匠かを巡り、訳者、編集者、原作者を巻き込む「解釈の葛藤」が発生する。
 囲碁の勝負を描く川端康成『名人』(The Master of GO,1972)では、翻訳完成直前にノーベル文学賞受賞者が自裁するという椿事が発生し、それが「東洋の賢人」像の完遂に貢献する。他方、北米の囲碁愛好者からは翻訳の不備も指弾される。名人が「残り時間1分」で百手も指したと訳者が誤解したため、原作の「気合い」に込められた静謐なる緊迫感は、乱闘同然の「暴力」沙汰に化けてしまった。後の独訳はこの点を宜しく是正する。
 翻訳は異質なものを跨ぐ越境だが、翻訳こそが拓く可能性も無視できない。三島由紀夫の『金閣寺』(The Temple of the Golden Pavilion,1959)では主人公の心理を映す隠喩表現が、直訳すると意味不明に陥る。翻訳者と編集者との間に発生した熾烈な駆け引きは読み応え十分。大佛次郎『旅路』(The Journey,1960)の登山の場面では、主人公の心象と自然描写とが渾然一体に進展する。だがこの「山場」はanticlimaxと評され、全面的に切除される。日本の新聞連載小説の結構とは異なる位相のclimaxを北米のnovelは要求していた。
 反対に英国作家アンガス・ウィルソンAngus Wilsonは『細雪』末尾の描写に吃驚する。長編は主人公の下痢の描写で「唐突」に終わる。だがそれは、翻訳者が「雪子」の回想を姉の「幸子」の発言と取り違えた(人称と時制の)錯誤に加え、地の文で想起された和歌をitalic表記で改行・独立させた英訳のtypographyゆえに生じた「唐突感」だった。原作では想定外で不在だった筈の効果が、誤訳のお陰で、読者に思わぬ反響を惹起した事件だった。
*総合研究大学院大学・文化科学研究科、国際日本専攻提出の博士論文審査(2019年8月27日)に取材した。きわめて完成度の高い画期的な博士論文であり、書籍としての刊行が待ち望まれる。







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