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評者◆藤田直哉
加速主義と、メディアの再編期――加速主義の言う「リベラル」「マスコミ」「アカデミズム」批判は、ほとんど同じ形式で日本にもある
No.3416 ・ 2019年09月21日




■加速主義という思想が、主にアメリカで流行している。日本でも『現代思想』が二〇一九年六月号で特集を組んだ。主要な論客はニック・ランドと、マーク・フィッシャー。加速主義は、オルタナ右翼に哲学的基盤を提供している、とも言われる。
 私たちは以前、オルタナ右翼たちが、デマやフェイクニュースを用いており、そのせいで世の中がディストピア的になっているという論難を見てきた。しかし、オルタナ右翼に影響を与えたと言われるこの思想もまた、現在がディストピアだという認識を強く持っている。現在がディストピアになったのは、マスメディアとリベラルのせいだと、彼らは主張する。
 この、一見思想的に対立している陣営が、どちらも現状をディストピアだと認識し、相手の陣営のせいだと主張し憎悪を向けるパターンは、これまでの連載で見てきた日本で起こっていることと同じである。対立する両者が同じパターンで現状を認識し、それを解決するための行動がよりディストピア的状況を実現していく、という悪循環を乗り越えることを、本連載は目指してきた。そのために、今回はアメリカの事例を見てみたい。
 加速主義は、一言で言うと、シリコンバレー精神の末裔であり、極端なリバタリアニズムで、科学と技術のイノベーションで人類を改造して進化してしまいたく、そのためには民主主義や倫理やリベラリズムは邪魔だと考える思想である。ペイパル創業者のピーター・ティールがその思想の源流にあるという。IT時代の超強者たちの持つ、超人思想である。
 その加速主義の源流となった、ニック・ランドの文章に「暗黒啓蒙」と呼ばれるものがある。ここには、ディストピア的な想像力(この世界は暗い状態で、何かが人々を洗脳している)がある。その「洗脳された人々」の世界像を「大聖堂」と彼は呼ぶ。
 「大聖堂と呼んだ、現代のメディアとアカデミズムの複合体によって行われているマインド・コントロールであり、思考の抑圧である」「大聖堂それ自体は一貫したイデオロギー的な方向性をもつものであり、そうした方向性に基づいて自らの敵をふるいにかけていく」(五井健太郎訳「暗黒啓蒙(抄)」『現代思想 二〇一九年六月号』p43)、「大聖堂が(中略)平等や人権や社会正義、そして――なによりも――民主主義の名の元に、普遍的な友愛という新たな世界秩序を制定するために必要となるあらゆる手段によって正当化された、福音主義的な国家の中で強化されていく」(p40)
 メディアとアカデミズムが「洗脳」して平等、人権、社会主義、民主主義を人々が信じ、その欺瞞的な世界に閉じ込められており、不自由にしている――この構図が、日本の保守やネトウヨの言う「戦後の日本はGHQ、朝日新聞、日教組に洗脳された」という主張とほとんど同型のロジックであることを、どう考えればいいのだろうか。
 オルタナ右翼の間では、映画『マトリックス』(一九九九)に由来する、「レッドピル」というネットミームが流行しているという(木澤左登志『ニック・ランドと新反動主義』)。『マトリックス』とは、ぼくらが生きている社会がコンピュータによって作られたシミュレーションであり、その外側にある現実に目覚めて戦う、という作品である。主人公は途中、「ブルーピル」を飲むか「レッドピル」を飲むか迫られる。前者なら気づいたことを忘れて、元のシミュレーションの世界で生きられる、後者なら現実に目覚めてシビアな戦いをすることになる。……マスゴミ、GHQ、リベラル、アカデミズムなどの「洗脳」の世界から目覚めて、「現実」を見て戦っていると思っているネット右翼やオルタナ右翼の自己認識と非常に重なる作品である(監督のウォシャウスキー兄弟は、その後、性転換をしたり、様々な人種・民族・性別の人々が苦境に遭う様を重ねて描く『クラウド・アトラス』を撮っているので、むしろオルタナ右翼的な思想に異を呈しているように見える)。
 映画『マトリックス』が頻繁に引用されていると聞いて、バカげている、虚構と現実の区別が付いていない、と思う読者も多いと思う。しかし、そこは織り込まれている。ニック・ランドには「ハイパースティション」という概念がある。これは「自身を現実化するフィクション」のことである。SFやサブカルチャーの内容が「現実になっている」と感じているし、自身の理論がそこから影響を受けていることを隠してもいない。彼の思想は、ドゥルーズなどの現代思想と、九〇年代のSFやサブカルチャー、ネットカルチャーの混ざり合ったところから生まれてきている。
 ニックは資本主義、国家などのシステムの外部を希求している。そのために、資本主義、イノベーション、科学をひたすら加速させ、「シンギュラリティ」の先の未知の世界を目指している。だから加速主義という名称なのである。
 ニックは加速主義右派と呼ばれているが、加速主義左派に分類される、『資本主義リアリズム』のマーク・フィッシャーはどうだろうか。
 彼は、錯乱的なクラブカルチャーや、ドラッグカルチャーの中に、この閉塞状況からの「出口」を見出そうとし、果たせず、自殺した。彼は、ジジェクやジェイムソンに影響されたポストモダニズムの世界観を持っている。この世界は出口がない、と追い詰めてくるポストマルクス主義者の影響を受けていたと言っていい。彼らの理論も、ディストピア的ではないか? このディストピアから逃れるためには「革命」などをするしかないと読者を煽るアジテーションなのだ。
 彼らの閉塞感に「現代思想」が影響していることは注目に値する。が、この論点は今はさておき、日本の「マスゴミ叩き」「知識人叩き」と共通性を持つ「大聖堂」の思想について考えてみよう。
 彼らからすると、リベラルこそが古いメディアである新聞やアカデミズムなどに洗脳されている「大聖堂」の住人であり、マトリックスから目覚めていない人々である。リベラルからすれば、彼らこそがネットの匿名掲示板などを通じてネットミームに汚染された人々である。「ディストピア」論としては、このすれ違いに注目してみたい。
 状況を考える手助けになるのが、書物が焚書されるディストピアを描いたブラッドベリ『華氏451度』(一九五三)である。本作において、テレビが人を無気力にしてしまい、本を読まなくなり、人々が思考しなくなったが故にディストピアが生じている。書物は燃やされ、なくされていく状況だが、レジスタンスが自分の頭で覚えている。これはテレビ文化批判である。
 つまり、メディアテクノロジーが新しく発明され普及していくと、ディストピアの想像力が生まれやすいのだ。それぞれのメディアに人が棲み分けるので、人々が思想的に分断され、メディアに洗脳されているというディストピア的な感覚を抱きやすいのだろう。
 加速主義の言う「リベラル」「マスコミ」「アカデミズム」批判は、ほとんど同じ形式で日本にもある。ネット右翼の常套句ですらある。マスコミや日教組や知識人はうそつきで、真実はネットにある、というような考えも示される。この理由はいくつも考えられる。「2ちゃんねる」や「ふたばちゃんねる」を模した4chanや8chanなどの匿名掲示板がオルタナ右翼を育んだと言われており、日米でメディアの共通性も、人的交流すらもあったようなので、これが原因かもしれない。
 しかし、それだけではなく、『華氏451度』のように、インターネットの普及による知的・政治的ヘゲモニーの交代劇が起きた結果であると考えても良いのではないか。
 少し話は変わり、日本の事例に移る。なぜインターネットがメディアとして力を持つと保守層が強いのか。それはメディア戦略の姿勢ゆえだったのではないか。既に論じた香山健一はじめ、中曽根らの新保守主義者は高度情報化社会について研究していたので、「情報」に敏感であったのは確かだ。
 新保守主義とは、文芸評論家アーヴィング・クリストルが創始したもので、彼らは「ニューヨーク知識人」と呼ばれるトロツキストたちだった。彼らは冷戦下において、文化や情報、言説の戦略を重視した活動を行った。安倍首相は、アーヴィング・クリストルに敬意を表明したことがある。その姿勢は、おそらく現在にまで影響している。
 何が言いたいかというと、新保守主義の勢力の方が、「情報」「言説」「思想」の力を明敏に理解し、対策を取る分厚い歴史を持っていたということだ。だから、ネットにいち早く対応する先見の明があったのだろう。ネットは今や保守勢力が力を持っているが、実際、産経新聞はいち早くネット戦略に力を入れていた(そして、産経新聞は大阪でシェアが大きい)。一方、朝日・毎日新聞は、ゼロ年代にはウェブを攻撃し続けていた。
 朝日・毎日が、メディアの未来を読み損ねたのは痛かったと評価しなくてはいけないだろう。未来を正確に予測し損ねた側の「思想」「政策」を、人々が信用しなくなるのも自然だと思うからだ。
 現状の、既存のメディアと、ネットの対立というのは、概ねこのような経緯で生まれたのではないかと思われる。
 かくして、新しいメディアが出てきたことそれ自体が「ディストピア」的感覚を抱かせるようになったことに加え、メディアの再編成を機にイデオロギーのヘゲモニー争いが起こったこともその感覚を促進した。つまりは、思想戦である。冷戦期のように、思想戦・イデオロギー戦、歴史戦が、まだ続いている、ということなのだろう。それが現在では、SNSなどで日常的に行われるようになった。ネットで「思想戦」「論破ゲーム」をしている人々は、自分がその戦場で戦っている一兵卒であるという自覚も持っているだろう。それが今までとは異なっているネット時代ならではの光景だろうか。
 この状況に、「炭鉱のカナリア」たる鋭敏な作家たちが反応しているがゆえにディストピア作品が二〇一〇年代の日本文学の中心的な形式となり、大衆的な無意識もそれを感じ取っているのだろう。俯瞰して見れば、グレート・ゲーム(のようなもの)の一局面でしかない、ともいえる。しかし、私たちは、この状況を俯瞰しているのではなく、その中に生きている。このような状況の中で生きる実存がどのようなものか、それが何を毀損してしまうのか、感じたり考えたりする必要があるのではないか。文学作品は、ディストピア作品の形式をとりながら、それを表現しているのである。
(文芸評論家)
――つづく







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