書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆藤田直哉
現在の「ディストピア」的状況の核心にあるジレンマとは何か――自分自身を含む集団の不利益になることを覚悟で敢えて「事実」や「真実」を優先するという価値観は、如何にして可能になるのだろうか
No.3400 ・ 2019年05月25日




■『図書新聞』3391号(2019年3月16日号)の一面に掲載されている増田幸弘「「棄民社会」の象徴」を読み、このディストピア論を「書かねばならない」と思った動機を言い当ててくれていると思ったので、そのことから始める。
 この文章には、東日本大震災と原発事故に接して様々な情報を集めた氏の「混乱」が率直に表出されている。
 「せっかくの真摯な本も、デマやプロパガンダにかき消されて埋もれてしまい、共通認識になることはなかった。(……)溢れかえる情報のなかで、なにが真実で、なにが正しくないのか、見分けるのは困難だった」
 ぼくは『東日本大震災後文学論』という編著を以前編んだ。その中で、「2011≒1984」というキャッチフレーズを使って、震災以後に日本の純文学作品にかつてないほど増えたディストピア作品を論じた。「和風1984」と呼称したこともある。
 いわゆる「ポスト・トゥルース」は、日本においては東日本大震災を契機にして進展した。それを鋭敏に感じた作家たちが、ディストピアの形式を用いた作品を作った、という風に考えていた。
 増田は、社会的な状況についても、以下のように述べる。「行政が統計を改竄し、御用学者と呼ばれる人がお墨付きを与えることで、怖ろしいことに、嘘は嘘でなくなる」「3・11は国の本質がエリート支配者による作り事であり、改竄であり、欺瞞だということを露呈しつつ、たとえそうであっても正しいと信じさせる空気を作った」。
 注目したいのは、その後だ。増田はこの状況を批判しつつ、それが必要であり、やむをえないのだと理解していることを、漏らす。
 国が「復興」と言い、プロパガンダをするのは「福島をなかったことにしなければ、「国体」を維持できなくなるからだろう」。「もし仮にぼくが記者ではなく国政に携わる立場だとすれば、きっと同じように考えてしまうだろう。うしろを振り向かせせず、とにかく前を向かせるように仕向けるのだ。そのジレンマに戸惑いを覚える」。
 このジレンマこそ、現在の「ディストピア」的な状況の核心にあるジレンマである。それは嘘や誤魔化しや欺瞞かもしれないし、しかし、それが必要であり、かつ有益なものであったとしたら(そう考える人たちが多いものであったら)、そのことをどう考えるべきだろうか。これは、被災地に何度も足を運んでいるぼくが、常に悩まされてきたことである。
 被災地は、ネットなどで検索して見る分には、明るく綺麗な建物があり、人々が笑顔になって賑わっているような写真が掲載されていることが多いが、現地に行くとその建物だけが新築されていて、笑顔で賑わっているのは祭りやイベントなどの特殊な日だけで、実際に足を運ぶと全然違う、ということがよくある。そのギャップに眩暈がすることが多い。それは「ハリボテ」の捏造ではないか、「盛っている」のではないか、とも当然思うのだが、ドキュメンタリーや実際に足を運んでその「祭り」を見ると、暗い顔をしていた被災者たちが明るい笑顔になって楽しそうにしているのを目にするのも事実なのだ。
 心理的な次元の話で言えば、「なかったこと」にし「前向きに」することは、精神衛生上良いだろう。暗い過去を何度も思い出すことが精神衛生上、ウェルビーイング上、マイナスであるのは確かなのかもしれない。鬱病や自殺などが数多く起こっている状況で、彼らを救うためには、それは必要な「イメージ」なのかもしれない。未来に希望を持っていない限り、人々は前向きに生きようとせず、仕事や生活に一生懸命に取り組むことも難しくなるだろう。そうすると、生産性が低下したり、ある産業が危機的な状況に陥るだろう。福島は特に、農産物などの生産が特に多い、東京の「バックヤード」なのだ。食料の供給や、それに付随する安全保障の問題を考えるに、前向きになってくれないと、国の存続に関わるのではないか。
 経済も、成長するためには、前向きで強気のムードが必要なのかもしれない。多少数字をいじってでも、前向きで明るいムードを作っておけば、実際に景気が良くなり経済が成長する、という「予言の自己実現」的な側面だってあるだろう。ネガティヴなイメージや事実を隠し、ポジティヴなイメージや虚偽を流通させることには、このような実践的な「合理性」があることはおそらく確かなのだ。少なくとも、日本のエリートは馬鹿ではなく、国民や国家のことを真に考えているのだと仮定すると、このような「合理性」を想定しているのだと推測することができるはずだ。
 「ディストピア」という批判は、これまで確認してきた通り、「事実」を隠蔽し、言葉を操作することで歴史や実態を変えてしまうような事態に対して行われてきていた。そしてもちろん、「ディストピア」という呼称自体がネガティブな意味を持つ批判であるから、それが良くないことだと判断しているのだろうと思われる。では、どうするべきなのか。「事実」や「真実」を重視するべきだろう、というのが、真っ当な意見であろうと思われる。確かに、デマや捏造に対して、それは非常に真っ当な態度だろう。しかし、それは、上に記したような、事実の隠蔽や歴史の操作、イメージのすり替えなどが、「本当に有益」であり、人々を救うかもしれないような状況においては、あまりに単純すぎる解決策であるのかもしれない。いわばそれは、近代の価値観を前提としたものである。しかし、経済や、国際政治までが「イメージ」で動くようなポストモダン以降の現在においては、その判断は再考しなくてはならないかもしれない。
 このような「ジレンマ」こそが、現在のディストピア的状況における、抗争の核心となっているものなのではないだろうか。少なくとも、筆者であるぼくがひたすら悩まされている問題は、このことの可否、善悪である。
 もちろん、「事実」を重視せよと言うことは簡単なのだ。歴史をなかったことにしたり、事実を捻じ曲げようとすることを、被害者側の立場から見ると、本当に腸が煮えくり返るような怒りが湧く。しかし、生活者としての自分を考えると、間接的にではあるがそのイメージ操作の利益も得ているのだとも考えざるを得ないのだ。それでも「事実」や「真実」に拘るべきだと主張することは如何にして可能になるのだろうか。言い換えるなら、自分自身を含む集団の不利益になることを覚悟で敢えて「事実」や「真実」を優先するという価値観は、如何にして可能になるのだろうか。
 おそらく問題は、深いレベルでの「価値観」に由来している。「事実」「真実」を、目の前の利害よりも優先するべきであるという価値観は、いわば「原理」のようなものがなければ、一般的には普及しないのではないか。「科学」を発展させたのは西洋だが、その認識の仕組みにはキリスト教やユダヤ教が大きく影響していただろう。「科学」と「宗教」はガリレオやコペルニクスなどの例のせいで対立的に考えられがちだが、目の前の現象世界を超えた、普遍的・観念的なレベルの世界を想定するという点においては、科学はキリスト教・ユダヤ教の認識の枠組みの延長線上にあるのだと推測できる。
 さらには、キリストのように、ある時代の世俗的な権力や仕組み、共同体などから疎外される人物が「神」となっていることも大きいだろう。哲学的な意味での「真理」を追究したがために共同体から死を宣告されたソクラテスや、宗教的な権力から迫害され地動説を弾圧されたコペルニクス、ガリレオなどを「偉人」として尊敬し伝承する文化圏において、彼らにはおそらくキリストの影が透かし見られていただろう。
 たとえ自身の不利益になってでも(死刑になったり、亡命する羽目になったとしても)、「真理」や「真実」に拘るべきだという価値観がある程度共有されるには、このような「物語」の共有が必要だ。ハリウッド映画などでも、キリストの影を担った人物は何度も出てくる。政治家の陰謀に気づいて告発する記者、警察内部の汚職や腐敗に抗って孤独に戦う刑事(ダーティーハリーは、十字架を背負ったキリストとして造形されている、とイーストウッドは述べていた)、弁護士、などなど、枚挙に暇がない。
 だが、日本はどうなのだろうか。このような「原理」や、そのような人物が神聖であるという「物語」は共有されているのだろうか。集団や共同体よりも、神と一対一で繋がっている自分自身による判断をこそ優先する文化圏だろうか。いや、そうではなく、「和」を大事にし、「空気を読んで」、「集団」に調和する主体こそが、尊ばれていないだろうか。それは、天皇と自然を「神」と見る国の価値観だろう、と思われる。おそらくその中では「事実」や「真実」は、それほど高くは価値づけられていないのではないかと思われる。集団の和を乱すのならば、その「事実」や「真実」は、むしろなかったことにされるという優先順位なのではないだろうかと思われる。戦前に支配的だった「皇国史観」において、実証的・科学的な認識よりも「物語」が優先されたことが、そのひとつの表れであろう。
 歴史学者の石田一良は、日本における「カミ」とは、動植物を多産にする力のことだと述べており、これにプラスになるものが善いものと感じられ、マイナスになるものが悪いと感じられる、としている。転じて現在では、経済における勢いも「カミ」的に感じられているのではないかと推測される。その「カミ」的なもの、経済の言葉に言い直すと「生産性」にプラスになるものこそが「善」でありマイナスであるものは「悪」だ、という感覚こそが、ここでは「原理」になっていると言いうるのではないか。それは、先ほどの、キリストやソクラテスやガリレオに体現されている「真理」に共同体よりも重きを置く価値観とは、正反対の方向を向いている。「カミ」的な流れの多産性を阻害するものであれば、真理であれ事実であれ、悪という評価を受けることになる。
 おそらく日本におけるポスト・トゥルース、ディストピア状況、歴史修正主義の背景にあるものは、このような思想である。丸山真男が「歴史意識の『古層』」で述べた言い方に接続すると「つぎつぎとなりゆくいきほひ」こそが重要だという思想である。この思想の持ち主にとっては、仮に事実であっても、科学的な根拠があっても、そのことよりも優先するべきものがある。
 ここにあるのは、宗教的な闘争であると言ってもいい。
 オーウェルが『動物農場』や『一九八四年』で描いたディストピアは、冷戦時代のイデオロギー闘争の寓話でもあった。それと比較して言うならば、現代日本の「ディストピア」作品は、この「宗教戦争」の状況を対立する陣営の双方から表象したものである。
 これを、単なる右傾化や、新保守主義者のプロパガンダや、日本会議の暗躍などの理由で説明し、片付けてはいけないのかもしれない。おそらく、少子高齢化や経済的衰退などが進行している中、東日本大震災と福島第一原子力発電所での原発事故が衝撃を与えたことによって、科学技術立国として成功し高度成長による平和で豊かな時代が達成されていたときには覆い隠されていた古層が、危機において露呈してきたのである。おそらく原発事故が「科学」に対する信頼を損ねたことも大きく影響している。
 しかし、第二次世界大戦以前の日本は、神懸り的な発想によって、ロジスティックを無視し、物質的・科学的な圧倒的な力の前に敗北したことも、やはり思い出した方がいい。原子爆弾という圧倒的な力は、神懸り的な精神主義で勝ちうるものではなかった。だから戦後は、科学技術立国として、重工業において世界に知られ自ら誇る国となった。その成果は日常に満ちており、もはや骨絡みになっている。これを捨てては、経済成長やイノベーションも停滞し、国力も低下する。科学技術は当然、科学精神に基づかなければ発展できない。科学精神とは、「事実」や「真実」に拘るものである。
(文芸評論家)
――つづく







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約