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評者◆中村隆之
私たちの住む場所はどこであれ戦場となりうる――『泥海』は、私たちの視界からは不明瞭な今日の世界の突端を捉えようとする「テロル」の冒険
泥海
陣野俊史
No.3399 ・ 2019年05月18日




■2019年3月6日。この日の朝、私はパリのホテルにいた。滞在中の習慣となっていたテレビの報道番組をつけると、只ならぬ光景が映し出された。16度目(3月2日)の「黄色いベスト」運動ではない。刑務所の前で車が炎上し、付近で男たちがたむろしている場面だった。
 繰り返される報道で事態が少しずつ掴めてきた。コンデ=シュル=サルト刑務所(ノルマンディー地方アルソン付近)で前日「事件」が発生した。同刑務所に収監されていたミカエル・キオロ(27歳、サン=タヴォル出身)が所内で2人の監視人を殺害したのだった。フランスで安全性の高い監獄のひとつといわれる同刑務所で起きたこの「事件」に対し、監視人が所内の安全性を求めて起こしたストライキが、私が観た映像だった。同種のストライキは国内18の刑務所でおこなわれた。
 なぜ襲撃できたのか。所内には最大72時間まで家族と過ごせる「家庭生活区域」がありキオロは申請をして妻アナヌ・アブラナ(34歳、ミュルーズ出身)とこの区域の部屋にいた。アブラナは妊娠している様子でお腹が大きかった。5日の朝9時45分ごろ、キオロは妻の容態が悪くなったとして監視人を呼び出し、「神は偉大なり」と声をあげてセラミック製ナイフを凶器にして襲った。ナイフは共犯者の彼女が妊娠を装って持ち込んだと疑われている。金属製でなければ探知器にはひっかからず、身体検査は人権の観点から相手の同意がなければできないことになっている。
 襲撃後、二人は部屋に立てこもるが、治安部隊の銃撃によりアブラナは死亡し(みずから治安部隊に飛びかかったとされる)、キオロは顔と腹部を負傷して病院に搬送された。危篤状態にあるという。
 この事件の数カ月前、銃で武装した「ジハーディスト」シェリフ・シェカット(29歳、ストラスブール出身)が、12月11日、ストラスブールの夜のクリスマス市で「無差別テロ」を決行した。この襲撃の数日後に警察に発見され射殺されるシェカットは、イスラム国に忠誠を誓った「兵士」であり、フランス当局の監視下にあった。
 キオロは犯行に際してシェカットの敵討ちだと述べたという。キオロはかつてシェカットと同じ刑務所に175日間拘束されていたことがあり、手紙のやり取りを通じて「ラディカル化」つまりはジハーディストへ転身したと言われている。キオロもまた同様に要注意人物として監視されていた。
 私はこの報道に接してフランスに持ってきていた陣野俊史の小説『泥海』の続きがすぐに読みたくなった。本書は15年1月7日に起きたシャルリ・エブド襲撃事件を題材にしている。3章構成であり、第1章では首謀者クアシ兄弟が「事件」を起こすまでの内的過程、第2章は犯行後に兄弟が逃げ込む印刷所での一部始終、第3章は長崎出身の若者がパリの事件現場に赴くことになった動機とシャルリ・エブド襲撃事件のその後を書いている。小説であるわけだが、著者はルポルタージュ的性質もこの物語に持たせようとしており、第1章にはとくにその傾向を感じる。この意味では本書はフランス側の報道の視点からは抜け落ちがちな、この「事件」はいかに起こされたのか、クアシ兄弟とはいったい誰だったのか、という想像力を通じてしか辿り着くことのできない個的な視点で描かれている。そしてこの点は、著者が敬愛し『テロルの伝説』という評伝を捧げた桐山襲が、歴史の敗者たちによる「テロリズム」を繰り返し題材にして書いてきたことがおのずと想起される。
 フランス国内のジハードと日本の左派運動における武力主義では、国家の視点からは反体制の「過激派」とくくられるとはいえ、その行為を支える思想はあまりに違いすぎる。だからこそ何がどう違うのか。まずはその内面を想像してみる。『泥海』におけるクアシ兄弟がラディカル化する契機は、やはり刑務所内にある。所内で出会ったジャメルという男が「光の兵士」となるよう弟のシェリフを導く。その後、シェリフはイッザナと宗教上の結婚を果たし、二人は『光の兵士たち』と題された著作をあたかも啓示のように受けとる。それは「いま世界中で人類の敵と見なされている人々が、いったい何を考え、何を感じているのかを知ること」を伝える本だ。著者の注記によればジハーディストのHPに全文掲出されており、本書でも『光の兵士たち』の一部が訳出・紹介されている。
 『泥海』の第1章を読み、シェリフとその妻がラディカル化する過程に、ちょうど報じられたばかりのミカエル・キオロとアナヌ・アブラナの姿が重なった。二人も同じく宗教的信条から結婚し、今回の犯行を共同でおこなうまでに結ばれていた。正直なところ、いまの私には想像が及ばない。確かであることは「光の兵士」にとってそこはいつでも戦場であるということだ。彼・彼女が突きつけるのは、私たちの住む場所はどこであれ戦場とつながっているだけでなく戦場となりうるのだ、という認識なのではないだろうか。『泥海』は、私たちの視界からは不明瞭な今日の世界の突端を捉えようとする「テロル」の冒険なのである。
(フランス文学)







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