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評者◆谷岡雅樹
壁の向こう――ラース・クラウメ監督『僕たちは希望という名の列車に乗った』、ピーター・ヘッジズ監督『ベン・イズ・バック』
No.3399 ・ 2019年05月18日




■シナリオ作家協会『脚本で観る日本映画史』の新年第一弾は、山田洋次監督『吹けば飛ぶよな男だが』であった。『シャブ極道』の剛腕監督細野辰興は上映後のFBに、なべおさみ演じる主人公サブが、〈寅さんや師匠のハナ肇が演じたバカが愛すべきバカだったのと違って、愛すべき処が見当たらないタダのバカで、しかも周りの人間を不幸にするバカ〉と記す。
 大事な存在や大切な者に対してさえ、屈折した態度しか取ることのできないサブの育ちと環境の貧しさ。その自らのやりようのなさ、かつ気付く力のない哀れさを精一杯表現しているのが、あのサブの過剰な涙のシーンであった。優しい眼差しを持たない者は、サブ等の残念な境遇と才能の無さを認めない者は、サブをバカだ、無能だと罵るだろう。それゆえの努力の中途半端さと方向の出鱈目さを分からない者は、「社会のせいと責任転嫁する甘え」と批判するだろう。その理屈自体に傲慢さはないか。どの立ち位置で撮るかである。或いは観るかである。
 山田洋次の家には少年時代、町に出ることのないお手伝いさんがいた。どうしても観たい映画があるという。案内をする。『路傍の石』だった。少々こまっしゃくれた少年にとっては感心しない。だが彼女は滂沱の涙を流す。「この人のために映画を撮ろう」と思った。この逸話を山田は何度か書いている。この日も、なべおさみが山田を前に語った。「ウチにねえ、いつもコンチワーってやって来るクリーニング屋のお兄ちゃんがいてね。バス停でこないだ見かけたんだよ。そしたら、今日は休みで新宿に映画を観に行くんだーって大声で言われた。彼に“これが映画だ”と思わせたい。あの子が分かる映画しか作ろうと思わない」。『吹けば飛ぶよな』撮影中に、なべに山田監督の語った言葉だ。
 映画監督の周防正行もNHKのSWITCHで語っていた。「年に一冊しか本を読まない人と一〇〇冊本を読む人とでは面白さの質が違う。しかし年一冊の人に分かる面白さ、今日初めて観に来た人に凄いと思われたくて作っている」。「面白い物語を書くと、大衆の愚かしい要請に対する作家の妥協と決め付けられる。それでいい」とは松本清張。「むずかしいことをやさしく」で始まる名文句は井上ひさし。小平裕監督が私にいつも語る「高尚に、しかし娯楽」という言葉は、ヤクザ映画のやくざが、せめて市井の人の陰に隠れて慎み深く生きようとするように、やくざ者たる表現者の最低限の心掛けだ。
 建築家の伊東豊雄は、311後の被災地に夜行バスで行く。「お前ら何しに来たんだ。お前らの力なんかいらない」。そう言われた。誰のために建築を作っているのかと考え直し、伊東は「みんなの家」を作る。
 人間圏の誕生は約一万年前で、地球システムの構成要素を変えていく。人類は、他の生物や要素に対して「汚染している」存在である。麻薬で逮捕のピエール瀧を擁護する声が映画人に多いのは、映画製作自体が、人類の夢の部分
たるスポーツや芸能の一種であり、それは不健康な娯楽装置として汚染のうちのイカれた「遊び」部分であり、そのことを引き受ける覚悟があるのか自ら問うているゆえである。もし麻薬で逮捕されたのが一般の暴力団員ならば、実に健康的に擁護はしない。
 「迷惑をかけていない」と擁護するその言葉自体が大いに迷惑であり、欲望の最も具体的な形である所有に、より手を染めているのはピエール瀧ではなく、ピエール瀧擁護者の方であることに、目を尖らせるべきである。日本の多くの映画人、音楽人、評論人たち。

て、本稿は最終回である。『僕たちは希望という名の列車に乗った』(以下『僕たち』)、そして『ベン・イズ・バック』(以下『ベン』)だ。ラストに相応しい映画でよかった。私は、年に約三〇〇本観る。邦画洋画の各一〇本程度以外は、はっきり言って面白くない。つまりは、一五本に一本面白い映画に巡り合う徒労は、もはや苦行にしか感じられない効き目の切れたトリップだ。三〇年前までは、もっと本数を観ていて、しかもどれも面白かっ
た。そんな私は卒業だ。AKBみたいだ。川栄李奈になりたい。「僕は金もないし、残せるものは文章しかない」と語っていた評論家田中眞澄は、こうも言っていた。「正体不明の民衆なるもの以上の存在であったつもりはない」。私もまた「つもり」未満である。
 『僕たち』では、二分間の黙とうで、高校生が卒業をはく奪される。ベルリンの壁ができる五年前の東ドイツだ。日本では、中曽根康弘が『憲法改正の歌』を作詞していた。奴らの力とは一体何だろう。権威で黙らせる。権力で圧倒する。その本当の元とは一体なにか。ピエール瀧の映像を、音を、番組を、カメラを止めたのは誰か。一部のモンスタークレーマーか。一握りの中傷者か。それともテロリストか。違うだろう。作っている側だろう。自らが「より」儲かる方へ、「より」都合の良い方へ、事なかれ主義へと流れる。そしてそれを何の痛みもなく後押しした無名の無数の匿名の爆弾。
 テレビドラマ「3年A組」で菅田将暉が叩き付ける。「何がよかったんだ。おい。何がよかったんだ。お前がこの動画をネットに流そうとしたことに変わりはない。違うか? この動画が世間に広まったら、どんな目に遭ってたのか、よく考えたのか、なあ! 考えたのかよ! お前の、不用意な発言で、身に覚えのない汚名を着せられ、本人が、家族が、友人が、傷つけられたかもしれないんだ。お前は、取り返しのつかないことをやろうとしたんだ。なあ! わかってんのか!」
 『ベン』には、徹底的にウソをついてでも麻薬を使用したくなる常習の息子が登場する。『エクソシスト』の幼いリンダ・ブレアが、毒親への抵抗でビリー・ミリガン化するのに比べ、一九歳のジャンキーは、その直前の段階だ。麻薬を止めさせることが常にいつでも絶対に正しいと言えるのか。売人を怖がっている。「これしか言えない」。マインドコントロールされている。売人はサイコパスではない。だが暴力は怖い。「お願い。助けて下さい」。本気の母がいる。『弁護人』の大女優キム・ヨンエのごとく、ジュリア・ロバーツが崩れ落ちる。ベスト・アクト。邪悪に対して自らも緊張感を持って立ち向かう。
 『僕たち』には麻薬は出てこないが、そう簡単には解けない大人たちと国家の呪縛が立ちはだかっている。薬に走る大学生が徴兵カードを盗みに入り、ワシントン大行進に歩を合わせた映画『1969』を想う。『1969』同様に国家に忠誠を誓う父が囁く。「決して英雄にはなるな」。その国家が父をネタに裏切り行為を誘導する。ベルリンの壁は、まさに鉄のカーテンであって、東西を分断したものではなく、東側からの自由への飛翔に立ちはだかった完全逃亡阻止装置である。『1969』は八九年ベルリンの壁が崩壊した年に日本で公開された。六九年の大行進が行われる五年前、西ベルリンにハンザ・スタジオが建設された。ここを七〇年代に使用し有名にしたのがデビッド・ボウイのベルリン三部作である。
 八七年六月デビッド・ボウイ。壁の向こう側の東ベルリンの聴衆に向けて、スピーカーの四分の一を解き放った。ドイツ語で語りかける。「今夜、皆で幸せを祈ろう。壁の向こう側にいる友のために」。出会いは、直球が空から降ってくる。説教屋の瀬戸内寂聴が、瀬戸内晴美時代の奔放さから、かつて粋なことを言っていた。「恋は、雷に打たれたようなもので、落雷直下のその位置で、打たれようものなら、止めることなど誰にも出来ないんだ」。若いうちは少なくとも必ずや、そうだ。
 マルクス・ガブリエルも大阪の屋台で弁じていた。「恋は探しているうちは無理だ。自由な人だけが恋に落ちることができる。探していないときにしか見つからない。そうでなければ恋愛ではなく暴力になってしまう」。映画だ。学生よ。出会ってみろよ。脱ぎやがれ。空を見ろ、あれは何だ、鳥か、光か、ボウイか。そら見たか。勿体ない。残念だ。馬鹿だね。
 大韓航空機爆破事件の容疑者キム・ヒョンヒが無言を通す。北朝鮮の呪縛を解くために、ソウルの夜の街を見せた。驚いた。それまで、いくら沢山の韓国の文明を見せても演出だと思われていた。南の現実がそんな未来社会みたいなはずはない。だが度肝を抜かれた。走り抜ける沢山のタクシーやマイカー。そして夜の闇とマインドコントロールされた心とを照らす圧倒的な光の量。一気に口を割った。『僕たち』もまた、西側で、はしゃぐ女の子たちを見る。ハンガリーの民衆蜂起を目撃す
る。そして黙とうへと一気に突き進む。『1969』は町を闊歩し、『僕たち』は、希望の列車に乗った。決断を下さねばならない。国を敵に回し、それでも言い放つ。「逃げたら堂々と生きられない」。
 場所は渋谷Bunkamura。三〇周年記念。これを読んで、それでも行かないなんて。『ベン』の方はTOHOシネマズだ。すでに八〇年夏、薬に溺れる少女を描いた『クリスチーネF』の撮影でも、ベルリンで歌っていたボウイ。八六年ボウイが主題歌の『風が吹くとき』。核に対して必死に無駄な抵抗をして見せる夫に妻は呟く。「もう、いいのよ」。壁の崩壊で何が変わった。大震災で何が変わった。これがVシネアストの肉体と魂と脳と心と誇りと哀しさだという渾身の力を込めて書き尽した筆痕。映画は若いうちに観るものだ。
 ボウイの死にドイツ政府は声明を出す。
 〈壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう。〉
 配給会社に頼まれたわけじゃない。ジュリア・ロバーツに義理があるわけじゃない。観る前に跳べ。飛ぶ前に観ろ。どっちなんだよ。飛ぶ前に観て飛んで、そして観ろ。伸びて縮んでまた伸びて。とにかく観ろよ。まだ見ぬ友よ。映画館で逢おう。熱気・狂乱・バカかげん。一夜限りのファースト・ダンス。記憶は、まだ残っている。ボウイはいないが、ある時期、共に過ごした仲間がいる。離ればなれになる。そして、時が来て皆で集まる。また会おうよ。そう言って別れる。その後は散り散りバラバラとなって、あとは想いの塊だけが残る。さようなら。だが、友よ。また出会おう。煽情のうた。薬なしでも飛べる。死でなくとも生きていける。V・イズ・バック。表で待っている。そして立ち上がり、狼煙を上げる。
(Vシネ批評)







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