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評者◆平井倫行
青の心臓――笠井叡 迷宮ダンス公演『高丘親王航海記』(@世田谷パブリックシアター、2019年1月24日~27日)と、その後の「天使館」における印象に寄せて
No.3398 ・ 2019年05月04日




■ここに天つ神諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、「この漂へる國を修め理り固め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。
『古事記』

 平成三十一年二月二十一日、国分寺の天使館において、舞踏家の笠井叡氏とその奥方の久子氏のお招きのもと、しばしお話をたまわる機会を得ていた。
 丁度一月前に、世田谷パブリックシアターにて開催されていた同氏の公演『高丘親王航海記』と「その後」の眺望を受けた、このところの所感を伺うためである。
 今回の舞台は、笠井氏が恩人・澁澤龍彦氏の絶筆である同著へと向けたオマージュを形とした記念碑的公演であり、その構成をめぐる話題は昨年末より、実に多くのメディアを賑わせていたが、一月十一日に京都にて封切りされた初演の後、舞台は二十四日、東京へと移され、同二十七日、盛況のうちに千秋楽を迎えたものである。
 平安時代の初期に実在した皇族をモデルに執筆された『高丘親王航海記』は、全七章で構成される幻想的な海洋冒険譚である。本公演はそのバロック的ともいい得る基本的な作品の筋書きを踏まえつつ、貞観七年(865年)齢六十七歳にして広州の港から「天竺」を目指し出船した親王が、様々な複雑怪奇の出来事を体験しつつ、やがて自らの死を予感し、最期その身体を虎へと抛つという「捨身行」へといたるところで、幕を閉じられることになる。
 オイリュトミストとして、「言葉と身体との結びつき」を極めて重要なものと思考する笠井氏にとって、既存の文学作品、しかも、現在までにあまりに多くの言説を纏ってきた作品をイメージ化することは、当初より大きな困難として顕在していたものと推察される。そして、それは何よりも本著作の有す、澁澤氏の「自伝的な」色合い、またあえていえば、晩年の闘病生活と死に向けられた感情とを反映した、本作の「遺書」的な性質とを併せ思考されるのならば、その物語との対峙は、一人の舞踏家にとり、字義通り「文体」との対決、文章家との人間的実存を懸けた、長い長い「対話」の過程であった、といい得るのかもしれない。
 時に「最後の文人」とも呼称される澁澤氏であるが、中国古代学研究の白川静氏によると「文」とはもともと「胸部に刺青をされた屍体」を意味する字であり、そこには死者の霊がこの世を彷徨うことがなきよう慰撫し、またその激しい怒りや悲しみの感情をおさめる「鎮魂」としての意図があった、と考察される。
 全ての魂の行きつく場所を求めた高丘親王の旅とはそもそも、幼い頃に耳にした「天竺」という「言葉」に「総身のしびれるような陶酔を味わった」無垢なる少年が、藤原薬子との幸福な思い出や、あたためられた愛情を脳裡に生きる面影としてかき抱きつつ、その世のしがらみや、自らの意思ひとつでは己の命さえ処すことの叶わなかった現実に翻弄された、生涯の晩年に振り返る、優れた「貴種流離の身体論」でもあった。いわば、この親王の物語には、豊穣な寛容性に満ち溢れたユーモアの世界像の根底に流脈する、一貫したストイシズム、最終章「頻伽」において、虎にさえ自身を供犠し「天竺(法)」へと到達せんという、熱狂的かつ神秘主義的な浄化思想、「失うことで完成される贖罪」という、魂をめぐる救済譚としての側面が、色濃く存在している。
 地獄の釜の蓋を開けたようなヒエロニムス・ボッシュの絵画を背景としつつ、本公演中にはまさに、ダンス・マカーブルとも、百鬼夜行の跳梁とも喩えられる、各章登場の多くの擬人化された動物達や、「すでに過ぎ去ったはずの人々」「ここにいるはずもない者達」が一堂に会し、笠井氏演ずる親王に憑依したかのごとき澁澤氏と、しばし狂宴乱舞に興ずる一幕が実現されたが、かくした祝儀的白夜において、未知と既知、過去と現在、彼岸と此岸の異種混交の宇宙は開かれる。それは榎本了壱氏の異種異相の衣裳デザインや、様式的混淆を基とする舞台演出とも相俟って、全ての存在や出来事はみな「当たり前の現実」として交流し、その愛情や友情をとり交わし得るという「自然律法」のもと、時間や空間の断絶性、非連続性に分断された価値対項を調停する螺旋構造に円環するという、澁澤氏の基本的な世界認識、および、本著作を基底する倫理観を結晶するものなのである。
 してみれば、この坩堝的な世界像において、人はただ「人であること」を忘却せぬ限り、何ひとつとして失うことは決してない。
 全ては始まりから終わりにいたるまで、夢もうつつも、幻も、変わることのなき全体性のよすがの中に、やわらかに包み込まれているのである。
 昭和二十九年九月二十六日、洞爺丸の海難事故で父親を亡くしたという、悲痛な過去を有する笠井氏にとって、舞踏とは、死者の呪いを解くための唯一の方法であり、またそれこそは「人間の実現」「法の実現」の実践ための航路と、把握せられるものである。
 織りなされゆく猛火の渦中において、生も死も、常に交換され得ぬ「現在」としてそこにある。

「だから澁澤龍彦は復活する」

 笠井氏は朗らかにそう宣言する。
 世はめでたくも令和元年、雲ひとつなき、快晴の青空である。
(刺青研究)







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