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評者◆藤田直哉
『カエルの楽園』と『幼年時代』――百田尚樹の安易さ、江藤淳の「本当らしさ」
No.3391 ・ 2019年03月16日




■震災後に「左翼」「リベラル」と見做される側がディストピアの形式を用いる例が増えたことは紹介したが、同じように「保守」「右翼」の側がディストピアの形式を用いる例がいくつもある。そしてお互いが相手こそ洗脳されており、自分たちこそが「現実」「真実」を認識していると主張している。このような状況の中では、右だろうと左だろうと、このような情報に接した結果として「あらゆる情報はプロパガンダではないか」という懐疑とシニシズムの感覚が蔓延していくのではないかと思われる。その現状と行く末をこそ見つめるために本連載はある。
 さて、今回は、前半に「保守」側がディストピアの構図を使った代表的な作品として、百田尚樹が二〇一六年に発表した『カエルの楽園』を取り上げる。本書は新潮社のサイトで、「大衆社会の本質を衝いた、G・オーウェル以来の寓話的『警世の書』」と紹介されている(https://www.shinchosha.co.jp/book/336412/ 二〇一九年二月二一日閲覧)。そして後半では、本書が依拠したと思われるWGIP史観について、簡単な検討を行ってみたい。
 内容を簡単に紹介しよう。ある過酷な弱肉強食の世界を旅する二匹のカエルが、JAPANを逆から読んだ「ナパージュNAPAJ」という国にたどり着く。その「カエルの楽園」は、ツチガエルたちが住む平和で豊かな国であり、「三戒」という戒律を持っており、「謝りソング」が流行している。「三戒」は憲法九条の暗喩であり、「謝りソング」は自虐史観を刷り込むプロパガンダソングの象徴である。
 「カエルの楽園」のカエルたちは平和ボケし、三戒信仰を持ち、自虐的である。世論に影響を与えている知識人的なカエルの名前は「デイブレイク」である。エッセイや対談などで百田尚樹が批判している朝日新聞のことだろう。
 ツチガエルたちの土地には、よそから来たヌマガエルが住んでいる、という設定になっている。これは在日コリアンを揶揄している、と理解して良いだろう。ヌマガエルは、ナパージュに侵略してくるウシガエルと通じた「スリーパーセル」のようなものと描かれている。
 ウシガエルがナパージュを侵略してくるが、「三戒」「謝りソング」「デイブレイク」に洗脳されて平和ボケしたカエルたちは、戦うことはせず、話せば分かると考え、結局ウシガエルたちに侵略され虐殺され奴隷にされてしまう……というのがオチだ。
 「三戒」を作らせたのは「スチームボート」という名前のワシで、かつてツチガエルと戦争し、勝ったという経緯がある。「スチームボート」は「蒸気船=黒船」、アメリカのことだろう。敗戦した日本はアメリカに占領され、憲法を押し付けられ、それを信仰するようになり、洗脳されており、朝日新聞はその洗脳を行う装置である……という世界観が、かなり安易に寓話化されている小説であると言える。
 文庫本の解説は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表の櫻井よしこが書いている。「本書は現代の日本の社会、そして安全保障をテーマにした物語だということがわかります」(p267)。
 本書はオーウェルの『動物農場』や『一九八四年』と比べれば、寓意があまりに単純で平板である。オーウェルの二作は、対立する両者を同時に批判し、書き手や読者すら安全地帯にいられない、というような切羽詰まった複雑な構造になっている。ある一方を、もう一方が批判するという単純な構図ではなく、その両者がすぐに反転するものであったり両者が同様の構造を持っていることを暴くのが、オーウェルの本領だが、その要素はない。
 『カエルの楽園』で寓話的に描いた内容は、いわゆるWGIP史観と呼ばれるものと非常に近しい。『日本国紀』における記述を参照すると、「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」とは「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」(p421)である、と百田は考えている。「この施策は結果的に日本人の精神を見事に破壊した」(同)、「GHQは思想や言論を管理し、出版物の検閲を行ない、意に沿わぬ新聞や書物を発行した新聞社を厳しく処罰した」(同)。WGIPで『眞相はかうだ』というラジオ放送が行われたが、それは「洗脳」であり、「GHQの『WGIP』によって贖罪意識を強く植え付けられたことで、当然のようにアジア諸国に謝罪したのである」(p425)、「朝日新聞にとって、ダグラス・マッカーサーは現人神だったのであろう」(p433)。
 このWGIP論を初めて世の中に大々的に提起したのが、江藤淳『閉された言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』である。この論が連載されていた時期の『諸君!』や文藝春秋に『一九八四年』ブームが起きており、その世界認識の構図に江藤が影響を受けた可能性を、本連載では示唆してきた。その上で百田尚樹の『カエルの楽園』を読むと、WGIP論がその着想の起源である(かもしれない)ディストピア小説に帰ってきたような印象を受けて、不思議な思いがする。
 さて、現在の保守論壇で非常に流行しているWGIP論は、どの程度本当なのだろうか。これまでに様々に議論があり、研究があるが、一例として、比較的新しい研究である賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム――GHQ情報教育政策の実像』を参照する。
 賀茂によると、WGIPは「東京裁判で示された歴史観に異議を唱える一部保守派、さらには現代の歴史教育を批判する勢力から、現在の日本人の歴史観をGHQによる洗脳の結果とする根拠として支持され、現在にいたっている」(p5)ものである。
 一次資料を丹念に繙いて研究した彼女の結論をかいつまんでまとめると、WGIPと呼ばれるプログラムをGHQは実行したが、保守論壇の言うほど、全面的に戦後の日本人が洗脳されたというわけではないだろうし、そこまで否定し去るべきものではなかろう、というものである。
 とはいえ、GHQが戦勝国側の歴史観を日本に植え付けようとしたことや、「戦争の有罪性」を理解させようとしたこと、「宗教的・文化的価値観」の違う日本に対して「人道」「普遍的倫理」「人類の普遍的理念」を理解させようとしたことなどは、賀茂も認めている。これは洗脳と言えば洗脳であるし、教育と言えば教育である。アメリカからの影響を否定的に考え「純粋日本」に戻りたい人々にとってはネガティヴなものであろうし、敗戦によって解放され自由になったという実感を持つ人にはポジティヴだと判断されるだろう。そう一面的なものではないはずだ。
 厄介なのは、それを判断する価値観の形成それ自体が問題になっているからで、戦後に生きて戦後の教育やメディアに影響を受けて行われる判断は、すべて「洗脳」だと批判することが可能になっている、ということである。
 戦後のアメリカからの影響が、本当のところどの程度で、それが良いものだったのか悪いものだったのかを筆者には判断する能力はない。それは、戦後に多くの知識人たちが議論し、葛藤してきたことである。WGIP史観もその中の一つだと思うが、『一九八四年』的な「洗脳」が起きているとする構造になっている点が、それらの議論との決定的な差になるのではないかと思う。
 百田尚樹らWGIP史観を述べる人たちは、どういうわけか東京裁判などにも言及するし、南京大虐殺その他の歴史認識問題についても「でっち上げ」だと言う傾向がある。つまり、WGIPも、南京問題なども、すべて「歴史戦」「情報戦」「世論戦」であるとする汎プロパガンダ的な認識こそが、現在のWGIP論者たちのニヒリスティックな世界観であり、自身の言動の正当性を調達する地点となっている。オーウェルと接続するのはそこにおいてである。
 その確認の上で、少しばかり、WGIP論を言い始めた人である江藤淳に触れておきたい。江藤の論には、そのようなニヒリズムとは違う感触があったのだ。WGIP論自体の、時代の流れによる変容を知るためにも、比較しておきたい。
 江藤は『成熟と喪失――“母”の崩壊』などで、戦後日本が「母」的なものを失っていくことを問題視した批評家である。「母」とはもちろん比喩で、情緒的でエロス的な共同体感覚、と言い換えてもいいのかもしれない。
 その江藤が、なぜ八〇年代以降、あんなにGHQの禁止や検閲を問題視し、禁忌と戦い続けたのか、それらと「母」の問題はどう関係しているのか。そんなことを考えながら江藤の著作を読んでいて、絶筆の小説『幼年時代』の一節で、「なるほど」と思ったことがあった。生後二か月の江藤淳が、四歳半で失った母に抱かれて、無邪気にクーイング(意味をなさない発音)をして「お話」をした、そういう幸福な記憶について語っている場面である。
 「それにしても、このとき私は、どんな『お話』を母にしたのだったろう。自分が母の顔を見分けていかに満足しており、此の世にも稀な『幸せ者』だと感じていることを、音節だけがあって意味の定まらない言葉(?)で懸命に表現しようとしていたのだろうか。/一方、母はといえば、その『お話』の意味するところを、いうまでもなく十二分に理解していたに違いない。それはもとより禁止もなければ、検閲も存在しない世界である。(…)自分にもかつてはそういう世界が確実に在ったのは、まぎれもない事実なのである」(p32、強調引用者)
 あられもなく正直に露呈しているように(これを露呈させるからこそ信頼できるのだが)、「禁止」「検閲」のないかつてあった「世界」とは、母と子の言語が未分化で一体となったエロス的な世界なのだ。『閉された言語空間』では、それがなくなったのはGHQのせいであると考えていたかもしれない。ヤンキー的アメリカ兵がそれを踏みにじったと考えていたかもしれない。しかし、『幼年時代』で、江藤はそれが、母子が一体化した、言語や意味などにより分節される以前の世界への私的な憧れであったと認識し、ひっそりと告げていないだろうか。
 もとより、言語による分節以前の母子のユートピア的な世界は、GHQがいようといまいと、戻れない世界である。別に戦前の日本もそういう世界ではなかっただろう。アメリカや西洋の影響を除去した「日本」になればそのように生きられる社会が来るのかもしれないと思うのは、おそらく幻想だ。
 とはいえ、汎プロパガンダ的なシニシズムが蔓延している現在、この江藤淳の私的で率直で情緒的な想いを露呈させたことによる「本当らしさ」の手応えが、ひどく懐かしく思われるのである。
(文芸評論家)
――つづく







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