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評者◆藤田直哉
一九八四年と二〇一一年、ディストピアの逆転――「ディストピア」という言葉は、多数派(と思っている相手)に向けられやすい
No.3384 ・ 2019年01月26日




■『一九八四年』は、三・一一以後の日本において政権や日本を批判する文脈で用いられる傾向がある。しかし、一九八四年には、政権に近い側が朝日新聞や共産党、戦後民主主義などを批判する文脈で用いられていた。この、「反転」のように見える現象を、どのように理解したらよいのだろうか。
 改めて確認すると、二〇一一年以降、日本の状況をディストピアに例える言説が多く現れてきたことが、この連載の前提となっている。斎藤美奈子は『日本の同時代小説』で、二〇一〇年代の日本文学を「ディストピア小説の時代」としている。筆者もまた同様に認識している(というか、斎藤さんが本書を書いたときの参考資料の一つが、ぼくの編著であり、そこでぼくは震災後に増えたディストピア形式の文学作品を論じた「同時代としての震災後」という文章を書いた)。ぼくは、純文学作家がディストピア小説の形式を用いたのは、その形式こそが現状を認識し伝達するために有用だと判断したのだろう、と推測していいのではないかとする立場に立つ。
 震災後のディストピア作品は、多くの場合「絆」「空気」「原子力産業」などを批判の対象としていた。典型例が辺見庸『瓦礫の中から言葉を』、吉村萬壱『ボラード病』である。詳述はしていないが、田中慎弥『宰相A』や、中村文則『R帝国』など、安倍政権下の日本を念頭に置いていると思しきディストピア作品も数多く書かれている。書類を書き換えたり、言葉を言い換えて誤魔化したり、歴史を改変するような現政権のやり口が『一九八四年』と比較されて批判されてきたことも、これまで確認された通りだ。
 しかし、ここ何回か確認してきたように、一九八四年の保守論壇の論調では、『一九八四年』を用いた批判の矛先が正反対になっている。これは何故だろうか。
 三・一一以後の日本においては、どちらかと言えば左翼・リベラルの陣営が、保守・右翼的と見做された政権を批判する文脈で『一九八四年』やディストピア作品が使われているのに対し、一九八四年の時点では、政権ともかかわりを持っているような保守・右翼側の論客が、朝日新聞や共産党、戦後民主主義など、左翼・リベラル側を批判する文脈で『一九八四年』やディストピア作品を用いているのだ。
 この反転の理由を解き明かすには、作品に内在しているものと、外在的な状況とを、複眼的に重ね合わせて思考することが必要だと思われる。
 一番簡単な答えは、既に述べた通り、オーウェルの『一九八四年』自体がシンプルな「骨組み」「構造」として作られているので、様々な事象を理解するモデルになる汎用性を持っていることである。
 もうひとつの答えは、「ディストピア」という文学的技法が、ある政治的効果を狙った技法であるからだ、というものである。「政治的な目標と芸術的な目標の融合に挑戦」(「なぜ書くか」『オーウェル評論集』岩波文庫p19)して書かれたのが『動物農場』『一九八四年』であると明言されているのだから、オーウェルの望んだ通りの「政治的効果」のために使われている、と言うこともできるだろう。
 では、それはどんな効果だろうか。「ディストピア」とは「ユートピア」の対義語だが、対等の対義語というよりは、「ユートピア」ありきの後から生まれたカウンター概念である。それは単なる「悪い未来」とは違い、あくまで、「ユートピア」のひっくり返しであるということが重要である。そのメッセージは「お前がいいと思って信じているものが実現したら、こんなひどい世界になるよ」ということである。そのように、相手の信念や確信に対して懐疑と不安を呼び起こすことこそが、ディストピアという技法の効果である。
 ディストピア作品を読んでいてぞっとするのは、そこに住んでいる人の大半は良い社会だと信じているという点ではないだろうか。それを読むと、自身が幸福で良いと信じているものを疑う効果が、当然発生する。良い社会が実現している、あるいは今後実現すると思っている人たちに、不安と懐疑を発生させることが、ディストピア作品の芸術的効果であり、政治的機能である。不必要に不安や懐疑を巻き起こすのは良くない、と批判する立場も当然ありうると思うが、今はこの技法の齎す効果の良し悪しには立ち入らない。
 ディストピア作品は、そこに生きている多くの人がユートピアだと感じているが、「本当は」酷い世界だと読者に感じさせるものである。悲惨な世界なら、そこをユートピアと思い込むわけがないから、どうしてその意識の乖離が起きるかの「原因」「設定」の説明が必要になる。これを「ディストピア装置」とでも名付けようか。
 「ディストピア装置」の系譜をざっと確認してみよう。たとえば、ハックスリー『すばらしき新世界』(一九三二)の場合は、フォードが神になった世界で、全世界が自動車工場のようになっているが、合成麻薬の「ソーマ」でみんながハッピーになっているという設定である。ブラッドベリ『華氏四五一度』(一九五三)は、「書物」が禁止され燃やされ皆が記憶を把持できなくなっていく世界を描く。そうなってしまった理由は、テレビやラジオの蔓延である。オーウェル『一九八四年』(一九四九)の場合は、言葉を操作し過去も事実も改変する「党」と監視装置のせいであり、ウォシャウスキー兄弟『マトリックス』(一九九九)の場合は、人々がコンピュータに接続されて夢を見ているせいである。これは日本(のオタク文化)がモデルの一つとなっている。伊藤計劃『ハーモニー』(二〇〇八)の場合は医療で、常時監視の健康システムを身体に埋め込み、脳(メンタルヘルス)にまで介入させてしまう。
 ざっと見て、社会が新しいパラダイムに移行するときにディストピア作品は書かれがちであること(社会体制の場合も、産業構造の場合も、メディアテクノロジーの場合もある)が分かる。これらの作品は「こういう思想に基づいてそっちに行くとやばいよ」「こういう技術が普及するとこうなるよ」と警告する意図がある。新しい物事に対するありがちな反発である要素もあるので要検証なのだけれど、今はそこは措いておく。
 このディストピア文学の形式が、政治的「現実」を認識する形式にも影響を及ぼしているのではないか、というのが、この連載の論点の一つだった。一九八四年の『諸君!』『正論』などの保守論壇――ポストモダン保守――では、戦後の日本で公式のイデオロギーとなっていた「戦後民主主義」を懐疑し、「朝日新聞」的な思想に反発していた。ここではこれらが「ディストピア装置」なのである。
 大まかに見て、「戦後のこの状況を多くの日本人は良いと思っているかもしれないが、これは(GHQや朝日新聞や共産党に)洗脳されてアメリカ化してしまったこの戦後民主主義の社会をいいと思い込まされている、これはニセモノの世界だ」、というメッセージが発せられているが、これがポストモダン的な懐疑をベースにした認識であることは言うまでもないだろう(ここで、何がニセモノで、何が本物なのか、何故ニセモノではいけないのかについての一見形而上的な問いに見えた議論や、アメリカ文化を受け入れることをどう捉えるかに対する戦後の無数の議論を思い出すべきである)。
 一九八四年の保守論壇においては「GHQ」「戦後民主主義」「朝日新聞」「空気」などが「ディストピア装置」として名指されていた一方で、二〇一一年以降においては、「国家」「原子力産業」「電通」「オタク・カルチャー」「右傾エンタメ」などが「ディストピア装置」として槍玉に上がることが多い。原子力発電所の事故などを軽く宣伝しているのではないか、「日本スゴイ」的ナショナリズムを煽るプロパガンダが蔓延しているのではないか、政府が書類や歴史を書き換えていないか、というのが、震災後の「ディストピア」論で目立つ論点である。どちらにも共通しているのは、「汎プロパガンダ的世界観」であり、この世の情報やイメージの大半が、情報戦・世論戦の武器になっている、という認識である。
 一九八四年と二〇一一年以降の反転はなぜ起きたのか。状況が変化したから、というのがもっとも単純かつ的確な答えだろうが、それとは違うひとつの仮説を挙げてみたい。それは、多数派がどちらなのかが変化したことが大きな要因ではないかということだ。
 「ディストピア」とは、大半の人間がそこをユートピアだと(「真の」現実から目を逸らして)思い込んでいる、と感じる人が批判や風刺のために使う文学的形式である。たとえば、一億人のうち十五人ぐらいが妙な思想を信じ込んでいても、それを「ディストピア」として批判したり認識することは稀で、むしろ「カルト」と呼ぶだろう。「ディストピア」という言葉は、多数派(と思っている相手)に向けられやすい言葉である。
 GHQが「WGIP」で洗脳した、戦後民主主義は欺瞞だ、東京裁判はでっち上げだ、そのように主張していた一九八四年の保守論壇の論調は、今や少数派のものとは言いにくい。インターネットを見れば毎日目にするし、そのような主張の本は出版不況の中で売れ続けている。それを堂々と主張する小説家である百田尚樹は平成で一番売れた文庫本の書き手であり、ミリオンセラーを連発している。さらには、彼の本を、首相が二〇一九年の年始に写真に撮ってアピールしていた。この状況では、少数派だと考えることは難しい。
 戦後の人々が思い込まされていたものは「自虐史観」であり、ネガティヴな日本人像や歴史認識は「洗脳」であり、「真の日本」「本当の歴史」はポジティヴなものであるから、現実に目覚めよ、という自尊心を高める効果を持つ思想は、「ハッピーだと思っている世界が実はひどいよ」というディストピアの批判精神が、(認識の形式は維持されたまま、感情的なネガティヴとポジティヴだけが)反転して、「ひどいと思っていた世界が実はハッピーだよ」と伝えるものなのだ。その認識が多数派になりかけていると感じ、危機感を抱いた人々が、その「反転したディストピア=ユートピア」的な認識に対して、「それこそがディストピアである」とカウンターを仕掛けている。そういう抗争の状況なのである。これはなかなか多重化して捻りの利いた状況で、こういう事態を認識するためのモデルは、ぼくにはまだはっきりと見えていない。引き続き、ディストピア文学それ自体と、それを使った語りの両方を反復横跳びしながら、探求を続けていくことにしたい。
(文芸評論家)
――つづく







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