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評者◆平井倫行
ひかりのまち――「終わりのむこうへ‥廃墟の美術史」展(@渋谷区立松濤美術館、2018年12月8日~2019年1月31日)
No.3383 ・ 2019年01月19日




■「来るべきものは、いま来れば、あとには来ない――あとで来ないなら、いま来る――いま来なければ、いつか来る」

シェイクスピア『ハムレット』第五幕第二場 (野島秀勝訳)

 かつて渋谷交差点にあった山下書店という本屋は、時間つぶしにも待ち合わせにも最適な場所であり、またその通りを挟んで近くの楽器店は、実にしばしば足を運んだ場所であった。
 はたして現在それらの地域は、翌年のオリンピックを見据えた東京再開発計画の区画整理の対象として、ふと気付けばめまぐるしい風景の更新の只中にいましも飲み込まれ、別の何かへと変容しつつある。
 その加速する時の流れに追いつくような感情の動勢などありえるのであろうか?
 ともあれそれが然様であり、また否であったとして、そうした疑義の発露自体がほとんど無意味である、といわれぬがごとく、今日も街は新たに自身の表層とすべき現実を見出すため、日々剥ぎ取られ、削られ、常に生まれ変わっている。それは膨大な時の無用さを許さぬこの国の都市構造そのものが、一時に凝縮された破壊と再生の詩学の中で、次々と自らが産出すべき明日の神話を引き寄せる依代としての、新造の廃墟群を要請しているかのようである。
 おりしも平成の御世が改まろうとしているこのような時期に、いや、「このような時期」だからこそ、この街の一角に佇む公立美術館において、廃墟を巡る観念史の流れを、まさに「我々の風景」として内在化していくことを志向する展覧会が開催される意義は、誠に深長であり、かつ示唆に富んだものであるといわなければならない。
 そもそも西洋美術史の文脈において、廃墟が重要な絵画主題と意識され始めたのは十六世紀から十七世紀にかけてのいわゆる「危機の時代」に属する美術様式、マニエリスムにおいてのこととされる。崩壊する建造物や栄華を誇る文明の凋落、時代転換期の不安を幻視する特権的表象として、廃墟はまずもって(例えば「バベルの塔」や「ノアの洪水」に代表されるごとき)「動態」のもつそれとして生起し、やがて古代的楽園幻想を満たす理想風景を表す「静態」へと移行したが、いずれにしてもそれらは、どのような素晴らしい時もいつかは必ず過ぎ去る、という、一種の「無常」を指し示す虚数の象徴として、基本的に把握されてきた。
 『迷宮としての世界』の著者グスタフ・ルネ・ホッケは、そのことを特に前者に関わる概念から「没落のヴィジョン」として論じ、その論点は何よりもローマの荒廃、ひいては西洋文明の瓦解に寄せられた喪失の感情と解される訳であるが、ホッケのいうヴィジョンとはしかし、抽象的な意味での「どこかの廃墟(没落)」ではなく、第一にはよそでなき帝国の破局に基づくデカダンス(頽廃)の心象として、それはいうなれば愛国の情のいささか屈折した表明、あるいはより端的に、詩的詠嘆としての「憂国」の所産を議するものでもあったのである。
 「廃墟の美術史」と題するがごとく、本展がその基礎として、西洋美術における廃墟を語る上で欠くことの出来ぬユべール・ロベールやピラネージといった重要作家の作品を支軸に構成される一方、しかしその視野が単純な廃墟の通略史的概観を目標としたものではなく、むしろそれらを鳥瞰した、より自覚的問題意識の提唱を志向したものであるのは、「シュルレアリスムのなかの廃墟」といったような、精神や無意識の領野に共有されたイメージとしての廃墟表現に構成上の大きな役割を与えている点、また加えて、それが他ならぬ「現在」のこの都市の光景において、あえて世代を超えた廃墟を主題とする「日本人画家」に焦点をあてる手法から、現代に活躍する作家の作品を、あくまで「学術史的」廃墟論の展開に位置づけることを試みている点においても、およそ明らかなように思われる。
 野又穫が渋谷を描いた《交差点で待つ間に》は、その構図的典拠となったピラネージ作例との類比からも、実に興味深い作品であるが、野又はまた本展に向け新たに制作した《イマジンImagine》なるカンヴァスにおいて、この国の「来たるべき風景」を創造してみせる。ここに描かれたのはあくまでも想像上の無人の風景、いまだ存在したことのない未来都市の景観であるも、したならば本作に何を見出し、何を想起するかは、この確かな「現在」を生きる我々一人一人が抱く、「明日の思想」に委ねられている、といわなければならない。

 「明日出来ることは、今日しないが自分のモットーだ」

 かつて昭和も終わろうとしていた頃、あえてアカデミズムの立場から敗北(敗者)を論じ、刺青(異端)を問うことからこの国の「戦後」を問うた松田修は平生、このようなことを口にしていたとされるが、これははたしていかなる意味合いから発せられた信条であったであろうか。
 どのような破滅も、決裂も、何もかもが「手遅れなまでに」遅すぎるものとなるには、いつだって十分ではない。
 「明日の終末」ではなく、「終末の明日」を巡る時の想像力において、廃墟は決して時間の「終点」ではなく、常にそこから「始めなおすため」にすぎぬ、ごくありふれた「通過点」でしかないことを、我々に教えてくれる。
(刺青研究)







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