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評者◆谷岡雅樹
佇む銃、誰も虹郎を止められな――武正晴監督『銃』
No.3375 ・ 2018年11月17日




■NHK教育(Eテレ)で日曜日の早朝五時から、「こころの時代~宗教・人生~」という時差ボケの爺さんしか見ないようなドキュメント番組が放送されている。私は毎回見ている。一〇月一四日は、今年五七歳で亡くなったラッパーECDの特集であった。
 夫であるECDの加療中の態度に対して妻の植本一子(写真家)は不満を述べる。
 「入院していて、ラップ一本録れたから、もう思い残すことはない、これで心置きなく治療に専念できる、みたいなことをツイッターに書いててさ。自分が自分であるために必要なものがラップでお金を貰うことみたいな……あれ、すっごい頭にきたんだよね。退院中にやらなければいけないことは、そんなことじゃないだろう! もっと身体を休めるとか、自分を労うとかしないと絶対に治らないのに。皆が求めているのは、まず元気になることであってさ」
 生前のECDは自問する。「あれ(ラップ)が出来なくなったら、もう終わりだと思う」。
 「自分であるために必要なものがラップでお金」という妻の発言はおそらく的を射ていない。ラップをやる理由は、むしろそのほうが身体が休まり、自分を労うことに直結するからだ。下手に身体を休め自分を労っていては、表現者の心は治まらないばかりか、喉に閊える骨のような塊が持続し、却って未解決のままなのだ。これは俳優がガンを隠しても作品に出たとか、ミュージシャンが喉の手術を拒否して「声」を選んだとかいうのとは似て非なるものだ。たった今の、創作し表現する者の生理として止められない。その時々の自らだけに課す祈りのような行為だ。この病のような生理と衝動が、現実や生活や人生と折り合いを付けるのにひどく苦しむ。それが表現する者の、多分それ以外の者には決して理解されないだろう業なのか欲情なのか、それ自体が表現だというしかない不思議である。その「たった今」だけは譲れないが、表面上は随分と沢山譲り続けて、限界に達した表現者は自殺している。その前に出口があればよいが、人生の長さと生理のスピードとの勝負でもある。生きることそれ自体が、病を治すことを拒否するような形にしかならない。むしろそうすることでしか立ち直ることが出来ない。なぜラップなのか。なぜ書くのか。なぜ映画なのか。止められないのだ。
 『止められるか、俺たちを』は、故若松孝二の現場エピソードで、一〇月公開中だ。脚本は井上淳一。オマージュに収まりきらぬ、抑制の利いた、己の中にある「手に負えない強い塊」の噴出による水紋のようだ。「表現とはラブレターにほかならない」とは私の主義であり理屈である。他の人間がそうである必要はないけれども、恋愛にもならぬやり取りに、私は興味がない。大衆迎合を最も嫌いながら、無性に一位を取りたがる「分かりやすい」人間を師匠(荒井晴彦)譲りと嘯きながら敢えて見せる心の師。この男も何度も罵られてきたであろう。「監督に成りたいけど、何を撮っていいか分かりません」「夢は叶えたけど、夢の持ち方が分かりません」みたいな映画青年的青春のジレンマ。そこだけ解決のついていた男が若松であったことを、初めて強引に記述した映画。敗北の妙に、撤退の振りの美学に、正直私は襲られてしまったことを告白する。抜けた。シナリオは「スジ」で、カメラが「抜け」だが、抜けた。七〇年代映画女優の輝きと暗さを申し子の如くに……見事だった。門脇麦では抜けないけれど。
 やはり一〇月公開の片桐竜次初監督作品『ボストンの鉄爪』。主演は武蔵拳。五九年生まれの五九歳だ。かつて雑誌『キネマ旬報』から「オールタイム映画遺産」というアンケートが来た。発売された本を見た或る評論家がツイッター。「誰だ、これ。谷岡雅樹の書くなかに、一人だけ分からない名前がいる」。以下の五人を挙げた。高倉健、金子正次、山田辰夫、武蔵拳、根津甚八。文化庁の芸術選奨「推薦委員」の一〇人の一人に私が加わっていたことがある。推薦枠は一人で、私は武蔵拳を挙げた。それが理由とは思わないが、翌年、推薦委員からは外れた。武蔵拳は、日本映画史上ただ一人のやくざ映画俳優と言っていい。鶴田浩二も誰も彼も、やくざのみの俳優ではない。なぜやくざなのか。
 映画を観た帰りのことだ。電車で、偶然隣の席に出くわした。劇場で、私の目の前の席にいた男だ。遊び人風で元業界人的な匂いが漂っていた。
 ――映画館に居たね。面白かった? 「いやあ。つらかったですよ」 ――面白くなかったってこと? 「たけしの『アウトレイジ』と比べて観ちゃったからだと思うけど、ひどくないですか?」 ――たとえば? 「まず役者の演技ですよ。この映画の人たちって『アウトレイジ』なんかとレベルが違うでしょう。私も昔ね、役者をやっていたから分かるんですよ。いろいろあって辞めたんですけど……」。それは確かに武蔵拳にとっての一つの問題ではある。この場でしか戦えない。好敵手が現れない限りは、見栄えがしない。やくざアイコンの骨董品が、ただただ陽の目を見ることなくアンダーグラウンドのVシネマ市場で朽ちていく。だが『アウトレイジ』は遅れたオヤジたちの映画である。北野武は武蔵拳すら発見できずにいるわけであり、むしろ見つからずに済んだことが武蔵にとってはもっと大きな可能性を残している。絶えて長い東映の久々のやくざ映画『孤狼の血』も、役所広司だけではオヤジの映画だ。松坂桃李を出さねばならなかった。しかしこれが『アウトレイジ』の加瀬亮同様に、やくざに見えない。いまの若手でやくざを演じられる俳優は、小栗旬と佐藤健だけだ。だが、これが武蔵の相手役ではどうなのか。薄い。まだ薄いのだ。そして……現れた。とんでもなく濃い逸材が現れたのだ。
 その前に、武蔵よりも早く売れてしまったバンドのドキュメントである。『さらば青春の新宿JAM』。ザ・コレクターズというバンドだ。ボーカルの加藤ひさしは六〇年生まれ。ロフトや屋根裏を目指すも、新宿JAMに留まり(当人たち曰く)仕方なくそこで演っていた。だが何と、一気に駆け上ったわけではもちろんないが、緩やかに結成三〇年目にして初めて日本武道館へと登場。ならば武道館を一つのゴール地点として最後に描いている映画かと言えばそうではない。最後は新宿JAMだ。そこが根城で最も魂を通わせた心の故郷かというと、これまたそうでもない。しかし、JAMでなければならない訳のわからぬ理屈もまた在った。むしろJAMこそが奴ら、いや、こいつら(つい、そう書いてしまう)にとって自然であった。「その気になっている」のが笑える存在とまでなった年輪。降臨とも言える。
 アメリカ映画『アンヴィル』は、売れないバンドのドキュメントだが、映画をきっかけに逆に火がついて売れた。そこにはロックスターの破天荒な(おバカとも言う)日常が描かれる。だが『新宿JAM』の場合は、コレクターズの生活を消している。売れないのにどうやって食べてきたのか。それが分かってしまってはヒーローではなくなる。金持ちの息子、周囲の庇護、怪しい副業、犯罪まがいに手を染める。どれも知ると嫌だろう。だが、おそらく真っ当な想像通りの生活があったはずだ。それを見せないのもヒーローだ。バカに“し甲斐”のあるバンドにまで登り詰めた。一歩間違えば、燃えよデブゴン(サモ・ハン・キンポー)みたいな顔で、イケメン気取りを本気でやっていたポロの暴動に感心を超えて感動する。トータス松本やサザンの桑田のカッコ悪さは、或る意味で織り込み済みのものだが、加藤のそれは、織り込まれずに三〇年見過ごされてしまった。この年齢と無視された妙な悔しさを含み重ねるという時間が、否が応にも必要だった。「何を気取ってやがるんダ」としか映らなかった三〇年。知らんかったおまんが無知だゆう人もおるかもしれんが、知っとるお前の方がド変態だろうが。と言いたくなるぐらいの最後の秘境であり、ラストロックンロールだ。バンドの音からスタイルから全体としての微妙な売れなさ加減と、決してカッコよくはないがカッコ悪いと言い切るには躊躇してしまう中途半端で僅かばかりの無駄なカッコよさが、妙に邪魔をする嫌な引っかかりを感じさせ、これがやっと三〇年経って実を結ぶ。結果的に、あの日あの時、その一点では、カッコよかったかどうかは分からないのだが、長い線でもって、カッコ悪くはなかったと言い切れるその僅かが、やけに持続してしまった無駄なカッコよさ。浮かび上がる世界史上唯一の歴史を生きるモッズ(山根明か!)。『アンヴィル』よりも沁みる。沁みカッコイイ。浮上した加藤ひさし。まだ見ぬ武蔵拳。
■さて、本題である。あらゆる言葉を尽くしても尽くせぬ傑作である。今年のナンバーワンであろうと同時に今後そうそう現れない魅力とパラダイムチェンジの瞬間現場と言ってよい境界の映画である。『銃』以前、『銃』以後という言葉が今後使われるだろう一一月公開の『銃』だ。友人は二一世紀の『タクシードライバー』と言っていたが、私はむしろ『ラルジャン』を想った。この主演が、愈々現れたゼ! 「武蔵拳の好敵手」村上虹郎なのである。プレスには「台風の目」と書かれている村上は同時に、目のないはずの強風暴風において既に目である。何だ、この目は。惚れ込んで、惚れ込んで、本気で惚れた者同士がギシギシとぶつかり合って作られた修羅。監督武正晴には無駄がない。無駄な部分を削ぎ落したわけではない。出来た部分の全てに無駄がなく、どこを切っても、最初から無駄のないものをただ切ったというだけでしかない。皮が無駄なら、既に皮を剥いた果物をさらに小さく切ったに過ぎない。剥く場所など既にもうどこにもない。無駄でさえない部分を削ぎ、さらに無駄のない作品になっただけだ。分岐点。銃が虹郎を押し上げる。
 映画には尚の過剰を望む私がさらにいる。ヒーローに成れなかった無数の無念の屍の上に存在しているからだ。それが武蔵拳であり止められないものの正体だ。
(Vシネ批評)







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