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評者◆秋竜山
秋ふかし隣は変身する人ぞ、の巻
No.3373 ・ 2018年11月03日
■カフカ著、頭木弘樹編訳『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫、本体五二〇円)。上からいってもカフカ、下からいってもカフカ。カフカといえば「変身」ということになるだろう。「審判」とか「城」とかいう人は「変人」ということになるのかならないのか。
〈「変身」に対するひどい嫌悪。とても読めたものじゃない結末。ほとんど底まで不完全だ。当時、出張旅行で邪魔されなかったら、もっとずっとよくなっていただろうに、――日記〉〈「変身」はカフカの代表作です。ノーベル文学賞作家のアネッティは、「〈変身〉で彼の巧妙の極致に達した」「〈変身〉を追い越すことのできるような作品はない」と激賞しています。それでも、カフカ当人にかかれば、「ほとんど底の底まで不完全だ」ということになってしまうのです。〉(頭木弘樹――本書より) 「変身」は、まぎれもなく〈家庭劇〉であると思う。家庭劇といえば喜劇といえるだろう。よそさまのドタバタ家庭劇ということになるのか。名句にある「秋ふかし隣は何をする人ぞ」と、いうことになるだろう。「秋ふかし隣はクシャミする人ぞ」でもいいわけだ。隣でクシャミしているのを聞いて笑い出してしまう。隣でなくても、外を歩く人がクシャミしながら家の前を通り過ぎるだけで、笑わずにはいられない。その、クシャミが「屁」でもいいわけだ。「秋ふかし隣は屁をする人ぞ」でもいいわけだ。「秋ふかし屁をする道ゆく人ぞ」でも。「秋ふかし隣は変身する人ぞ」でも、いいわけか。 以前、テレビの人気番組に「突撃!隣の晩ごはん」と、いうのがあった。突然入り込んできた人が、「晩ごはんは何です?」と、いったら、「何であろうと、大きなお世話だ!!」と、怒るのが当たり前だろうが、それがテレビの番組であったら、怒るわけにもいかないだろう。笑いというものの本質をついた番組であったことは間違いなかった。笑いはザンコクさによって生ずる感情であるだろう。 人生に希望を持て、と、自分をはげます。本書では、カフカの絶望に希望を見出そうとしているようにも思えてくる。それも、只の絶望ではなく、〈絶望名人〉である。名人とは、〈芸〉でもあるだろう。〈名人芸〉という。絶望を名人芸にまで高めてしまったらしめたものだろう。 〈カフカは不眠に絶望した!〉〈今日はひどい不眠の夜でした。何度も寝返りを打ちながら、やっと最後の二時間になって、無理矢理に眠りに入りましたが、夢はとても夢とは言えず、眠りはなおさら眠りとは言えないありさまでした。――フェリーツェへの手紙〉〈ベッドでじっと横になっていると、不安がこみあげてきて、とても寝ていられなくなる。(略)仕方なく、また起き上がる。こんなふうに寝たり起きたりをくり返し、その間にとりとめのないことを考えるのだけが、ぼくの人生なのだ。――補遺〉(本書より) 他人の不眠で悩んでいる姿を、同情こそすれ、不眠者の気持にはなれないだろう。不眠症になってはじめてわかるというものだ。つまりは、カフカのように絶望名人、不眠名人になることだ。名人芸ともなれば、芸は身を助けるというではないか。 |
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