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評者◆稲賀繁美
ひとはいつ・いかにして親鸞に呼ばれるのか――日本信仰思想史における宿命の周期律(後)
No.3370 ・ 2018年10月13日




■(承前)「我らは薄地の凡夫なり、善根勤むる道知らず、一味の雨に潤ひて、などか仏にならざらん」。『梁塵秘抄』の一節だが、ここに評者は新大陸で奴隷の子孫たちが口ずさんだゴスペル、黒人霊歌にも通じる境地、末世にあっても往生への憧憬と信頼に溢れる明るさを見る。ところが晩年の親鸞は違う。「悪性さらにやめがたし、こゝろは蛇蝎のごとくなり、修善も雑毒なるゆへに、虚仮の行とはなづけたる」(『正像末浄土和讃』)。世界文学を掌に収めた著者は、両者を隔てる深い奈落を見逃さない。親鸞晩年の、異様なまでの自己懲罰の詩的噴出。それを自力と他力とをめぐる逆説、否定の弁証法のうちに説き明かすことが、本書の眼目となる。
 だが『親鸞への接近』は、ひとり著者個人の体験にはとどまらない。親鸞に導かれた先人たちとの切磋琢磨のなかで、本書はそのさらなる本領を開示し始める。まず、三木清。敗戦直後、獄中に死去したこの哲学者について、著者は大学院を出てしばらくして、一編の戯曲を書こうとして挫折した、という。三木の未完の「親鸞」は、晩年の改心ではなく、幼少への回帰に基づく身証への契機だった。つぎに三國連太郎の『親鸞 白い道』。ここには著者の映画史家としての蘊蓄と明察とが衒いなく披歴される。さらに圧巻が「吉本隆明と〈解体〉の意志」。
 浄土を願うものは無智ではありえず、しかし無智は浄土の裡に在ることを自覚できない。往相と還相との二種回向がここで問題となる。悟りに達した境地から戻る還相にあっては、もはや無智ならぬ非知に着地することが求められる。だがその理路は愚者たる庶民、無知蒙昧な「衆生」には秘匿するほかない。けだし解脱を求める意志は平等だろう。だが、その達成は学識の有無によって不平等となりかねぬ。だからこそ「他力」が要請される。凡夫なればこそ往生できる。だがそう意識した刹那、凡夫の境地に居直る悪行を図る輩が出現しよう。親鸞が「本願ぼこり」と呼ぶ逆説である(221、254頁)。しかし「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」には、こうした理知的な判別をも容易く乗り越える「甘美な危険」が宿っている……。
 「念仏」すなわち仏を念じるという表現は、英語には翻訳不可能だという。能動でも受動でもない「御計らい」に身を委ねるその様態は、中動態を失った現在の印欧語族の言語では、語法の彼方に消尽した。真宗の祖の信心の中核が「外見あるべからず」と隠蔽された所以も、ここにあろう。信仰共同体を解体する他ない禍々しい逆理が、ここに露頭しているのだから。
 「衆生でないことが、衆生であることである」。吉本隆明の語るこの二律背反に、浄土の背理も宿っている。衆生のidentityなき「移ろい」。弥陀の掬いの指をすり抜ける衆生に「遊戯」が極まる。親鸞にその実相が見えたのは、「非僧非俗」なればこそ。だが彼にその破戒の実存を命じたのが、自らは仏僧としての生涯を全うした法然の「計らい」ではなかったか。
 この驚嘆すべき著作によって、著者は齢65にして、己が「思考の晩年様式」という「終わりなき道」への準備を終えたように思われる。冒頭に本書を「懼るべき」と書いたのは、それゆえである。なお些末な仔細に渉るが192頁の「呪術」は「叙述」。索引にも拾われた「高村幸太郎」は「光太郎」だろう。本書表紙に配されたOdilon Redon《黄色の帆の小舟》は海路を横超する同船の師弟二人の姿を顕現する。(了)

※四方田犬彦著『親鸞への接近』8・20刊、四六判528頁・本体3000円・工作舎







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