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評者◆秋竜山
記憶と忘却、行ったり来たり、の巻
No.3368 ・ 2018年09月22日
■困った時は、「記憶にありません」たのみとなる。この言葉によって救われる。便利な言葉である。「記憶にありません」と、一般の人が使ったとして成功するわけはなく、その言葉を連発したかったら、出世すべきである。偉い人でなくては通用しないということだ。記憶という言葉のために、忘却という言葉があるようだ。「忘却しました」とはいわない。やっぱり「記憶にありません」だろう。「忘却とは忘れさることなり、忘れえずして」、なんとかかんとかと続く、そして君の名の歌となり、ラジオドラマが始まる。メロドラマであり、「すれちがいのメロドラマ」という内容であった。子供の私には深くはわからなかったが、単純なストーリーだったせいか、なんとなくわかったような気もした。その内容が忘却とどうむすびつくのかは、わかったような、わからないような。子供にはそれでよかった。大人たちの間では大人気番組であった。
外山滋比古『乱読のセレンディピティ』(扶桑社文庫、本体五八〇円)では、 〈記憶と忘却は、前にものべたが、仲よくない。記憶のよい人は忘却力が弱いし忘れっぽい人は記憶が苦手である。〉(本書より) もしかすると記憶するより、忘却のほうが大切ではないか、とさえ思えてくる。忘却という言葉がなければ、記憶という言葉はいきてこない。 〈記憶はそのまま保持されるのではなく、忘却によって変化させられる。そのあと、忘却し切れなかったものが、再生される。この記憶もしばらくするとまた忘却のスクリーニングを受けて少し変貌する。〉(本書より) 「記憶にありません」と、いわれると「ウソだ」と、かんぐってしまうが、「またか」とも。相手の脳の中をまさぐるわけにはいかない。「忘却しました」とはいわないのをみると、「忘却しました」というからには記憶があったということに通ずる。記憶にあったからこそ、忘却という言葉がうまれるのである。忘却とは時間がたつと、フッとしたことで思い出したということもありえるだろう。 〈記憶は原形保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。(略)忘却は、記憶に対して破壊的であるけれども、一部では、記憶を回想に美化させるはたらきをもっている。〉(本書より) 「あなたは、記憶しているなかで、何色にみえましたか」 「ハイ!! 赤色です」 「赤色ですね」 「イヤ!! 黄色だったかな。ハイ!! 黄色でした」 「黄色に間違いありませんね」 「ハイ!! 緑色でした」 「緑色と記憶しているんですね」 「……!? まってください。黒色だったと思います」 「いったい何色と記憶しているんですか」 「…………」 「どうしましたか」 「すべて、記憶ちがいでした」 「すべて色ちがいか」 つまり、記憶というものは、あいまいなものである。と、いうことである。 |
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