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評者◆谷岡雅樹
銃弾のなか、屍を背に、有刺鉄線の外は夜――コンスタンチン・ハベンスキー監督『ヒトラーと戦った22日間』
No.3367 ・ 2018年09月15日




■全国高校野球選手権が第一〇〇回記念大会となり、たった今終わったばかりだ。この連載もまた、これが第一〇〇回である。平成最後の百姓一揆と言われた金足農が決勝で力尽きた如くに、本当に観てほしい塊がここにあるということを伝え切ることなく散らばる紙礫を幾度も丸める所作を繰り返して第一〇〇回。批評を書く。互いの心の会話のためだ。
 批評対象を基本的に私は二度以上観る。今回は一度しか観ていないので、非常に書きたくない。二度目を観て一度目ほどに面白くなかったと評価が変化することは、四割ぐらいだ。その四割で絶賛した苦い経験がある故、出来るだけ一度観ただけでは書かない。二度目は、結果を分かって観戦するスポーツのようなもので、一度目になぜ面白かったのかを、作品分析ではなく、自分の分析をするために観る。つまり、なぜ面白い作品なのかではなく、なぜ私が面白いと感じたのかを知るために観る。自分を知りたい。他の人の批評と違うと思われているとしたら、作品批評ではなく自己批評をしているからだろう。その意味で、批評は、読者でも作者でもなく、自身を突き止めるための言葉へと向かう作品の創作そのものと思っている。観てもらいたい以上に、観た私の気持ちが何としても伝わる表現を出来ると思っている。それは偽ブランドのスキー板みたいにときどき滑るが……。
 ある人間を評価するときには、「当人に直接当たれ」という。それが最大の近道だ、と。だが必ずしもそうではない。その人間の身なりや持ち物、もっと言うと、その人間の友達を見る。その人間自身よりも雄弁だったりする。学校を転校してクラスに馴染む前に、一人のおしゃべりな奴が現れる。友達でもないのに、べらべらとあれこれ、クラスの人間について批評を開陳する。Aはバカだが気は優しい。Bは冷たいが的確だ。Cはバカで冷たいが、面白いといった風にだ。そいつの言うことはほとんど的を射ていなくとも、しかし頼りになる。人物批評として確かでなくとも、使い勝手が良い。情報として助けになる。認識違いであれ一番知りたいことが詰まっている。心情的に落ち着く。その効果と意外性。
 映画批評も似た関係の中に存在し、私の考える良い批評とは、転校生に対して、嘘でも説明上手な奴や、的外れでも面白い奴の方を指している。批評よりもSNSでの口コミを信ずる人が多いのにも、同じ理由がある。マスコミに踊る文章には、(試写を観る都合上の)配給会社や(作品のスポンサーと関係深い)媒体や(身内同然となった)作り手との繋がりやしがらみといった「業界事情」が透けて見えるから、「読みたくない」という人も多い。
 〈ヤンキーで頭悪そう。でも人として一番大事なことを分かってる〉というネット上の書き込みを見た。相川七瀬のことだ。歌うヤンキーに聴くヤンキー。ともに歌える歌。私の批評もそうありたい。上手い下手は問題じゃない。この歌はこいつの声で聴きたい。外れても魅力のある声。心に響く声。癖が強くてもこの人間だけの固有の声。相川になりたい以上に、相川七瀬を聴くような奴に、哀川翔を観るような奴に、読まれたい。
 観てほしい作品が現れる。なぜ書くのか。永遠の名作なんてないからだ。そのときにナマで観る以外に面白くない。作新学院の江川卓も、中森明菜の『DESIRE』もそのときに、あのときに、見なければダメだ。だから書く。その好みがどうして生じたのかをそのときに言わなければダメなのだ。第一〇〇回は『ヒトラーと戦った22日間』(以下『22日間』)だ。
 監督は主演も兼ねるコンスタンチン・ハベンスキー。三大絶滅収容所の一つ、ソビボル収容所で起きた実在の脱走事件を描いたものだ。ブノワ・マジメルが自ら立案した『いのちの戦場―アルジェリア1959―』やメル・ギブソンが監督主演した『ブレイブ・ハート』の如く、製作に突き動かされた魂が演じる者に強くたぎっている。
 日本で、俳優が一級の作品を意識的に監督した唯一の例外と言って良いのは、山村聡の『蟹工船』だ。しかし独立プロ運動のピークに撮られた作品自体が運動体化したもので、メジャーが製作した作品ではない。ヒトラー題材の映画が一級の娯楽大作としてこれだけ多数作られるのに対し、日本で天皇が戦争と戦後のGHQにどう関わりどう生きたのかを描く作品は皆無だ。何がタブーなのか。ヒトラーが既に死んでいるのに対し、天皇は昭和を生き切り、皇室もまた基本的に国民の多くに愛されることはあっても、憎まれる存在ではないことと、存在する以上は、共鳴者や信奉者が、その描き方に介入し、上映を妨害するのではないかという暴力装置に二の足を踏む(忖度、自粛、斟酌する)ことも大きな理由だろう。しかしそれを乗り越え、上回るだけの作る動機と理由がないからではないか。
 メルもブノワもハベンスキーも、絶対的な動機に突き動かされている。今のプーチン政権の恐怖かもしれないし、過去の身近な死者の声かもしれない。とにかく「ある」のだ。
 今年観た中で日本映画のベストは『空飛ぶタイヤ』だ。ほとんど一本たりとも私と意見の合わなかった山根貞男も、『キネマ旬報』九月上旬号で同作を褒めている。〈距離がサスペンスを生む場所になっている。(中略)そう(社会派活劇)なっているのは、画面展開のリズムとテンポの力ですよ。〉この辺りの慧眼は私には皆無だが、心動かされた理由は、次の一点に尽きる。従業員やその家族を路頭に迷わせる結果になるだろう状況で、しかし甘い誘いに乗って巨悪に加担する行為を「しない」というところだ。なぜ、そこで「しない」という決断が可能なのか。生きてきた積み重ねの跡だ。背負ってきた結果だ。死んだ同胞。戦友。苦い水を飲まされたルーツたち。地域や親族の犠牲の上に生きる自らを自覚しているからだ。共感の強さが、我が事として引き受ける力が、引き下がらせない。悪の側(もっと言うと美味しい側)になびかせない。主演の長瀬にどう演じてもらうのか。経験し共感してきた男を使うしかない。映画とは、どう生きてきたかを問われ、中身が露見してしまう行為への参加だ。批評もしかり。
 『22日間』では冒頭、収容所へ着くなり、大切な荷物を預けさせられる。「必ずまた返しますから、一時預かるだけです。安心してください」。とにかく明るい安村みたいだ。引換証も渡している。そしてシャワーだと偽って、ガス室へ送る。高貴な女性たちが、口々にこう呟く。「二日もシャワーを浴びていないから、やっとのことで嬉しいわ」。何の疑いもない。おそらく、貴重品をただ没収するのでは、その後のガス室送りがバレて騒ぎ出されると困るので、たとえ無駄なやり取りであっても、「引換証」を作り、それらしく騙す。カバンに白いチョークで記号のようなものを書き、引換証を渡す。この手の込んだ小さな仕組みは、事実としてあったのだろうか。不思議である。もう殺すだけの存在なら、敢えて「期待」を持たせる必要はない。殺されることに気づいて暴れ出しても、暴力的に命令するだけで済む。しかし、ワンクッション置いて、見せかけの「引換証」を作る。
 南京大虐殺では、中国人捕虜を海辺の広場に集めて、周囲の有刺鉄線の外の高台から機関銃で一斉射撃した。撃たれまいとして人間同士が連なり、それは三メートルくらいの高さになったと、当事者が興奮しながら語っていた。「阿鼻叫喚。凄かったですよ」(「南京事件Ⅱ~歴史修正主義を検証せよ~」NNNドキュメント)。やはり、カモフラージュのために機関銃の上にシートや草を被せていたという。殺す対象への僅かな疚しさなのか、或いは単に、事を速やかに遂行するため、方法論としての手順の一つに過ぎなかったのか。
 『22日間』では、主人公の一人かと思われた美人女優ミハリーナ・オリシャンスカが、シャワーを楽しみにニコニコと歩を進め、いきなり消える。『サイコ』のジャネット・リーが途中でいなくなるよりもずっと早い。暴力の即物的な切断感、慈悲の無さが恐怖させる。
 脱走映画のもたらす刺激は何か。『ミッドナイト・エクスプレス』の冤罪からの自由。『猿の惑星・征服』の抵抗運動。『大脱走』の皮肉。『新網走番外地・吹雪の大脱走』の反体制。『ザ・ロック』の棄民の孤独。『スリー・デイズ』の家族の問題。皆どれも国家や規則、強い者のルールへのアンチテーゼだ。『22日間』は、民族殲滅への究極のアンチというよりも、ただただ生きるためのギリギリの営為だ。看守を殺す行為は、命の正当防衛ですらない。
 「お前にも出来るか」。収容所内で息子のような年齢の少年が役割の“防衛”を振られる。躊躇し、こう言う。「父さんは人を許せと言っていた」。「……相手が人ならな」。
 ヒトラーはサイコパスだと言われている。『ヒトラー最期の12日間』は、明らかにその要素で作られている。「われわれ親衛隊は総統と一心同体です」と言って投降せずに自決を選ぶ下の者たち。『ブラジルから来た少年』では、ヒトラーの遺伝子を残そうと人体を使った実験計画を戦後三〇年にわたって実行していく医師がいる。彼の命令で、やはり元親衛隊が、「忠誠こそわが名誉」と言って殺していく。ヒトラー暗殺未遂事件を扱った『ヒトラー暗殺、13分の誤算』は、このサイコパスであろう男が権力を握って抵抗が無駄となった時期(三九年一一月)に、単独爆弾犯となった絶望的な一人の家具職人を描いている。
 『22日間』の描く脱走劇は、さらに四年後の四三年一〇月の出来事だ。毒され、麻痺し、神ならぬサイコパスの書いたシナリオの上を泳いでいる者(手先)たちから、時代も場所も移動しなければ、死の方法をどれにするかの選択肢しか残されていない。一〇人に一人を殺す罰ゲーム的娯楽が「相手」には罷り通っている。
 「相手が人ならな」と言った男に、少年は返す。「お父さんになってよ」。
 訴えたいことがあるからこそ映画を作っている。そして批評する。
 別の男もまた、彼女にこう言う。「この戦争も収容所も、何のためなのかわかったよ」。
 「何のため?」
 「君に出会うためだったんだ」
(Vシネ批評)







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