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評者◆藤田直哉
『1984年』の汎用性――なぜイデオロギー的に対立する相手が、互いに互いを『一九八四年』の図式を使い批難しあう現象が起きるのか
No.3366 ・ 2018年09月08日




■前回、前々回と、現代日本やアメリカの状況を説明するために、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』が援用されている、という話をした。しかし、それを、現実が『一九八四年』的になっている、と理解してしまうのは即断が過ぎるだろう。今のところ言えるのは、何人かの書き手や作り手が、『一九八四年』で提示されたモデルを利用し、現実に起きている事象を解釈し、表象したということだけである。
 今回は、その『一九八四年』という「モデル」と、それを使った現実理解(を示す言説)との関係性に踏み込んでいきたい。
 社会主義・共産主義陣営へのネガティヴキャンペーンとして『一九八四年』や『動物農場』が利用されたことを既に述べたが、同時にそれは現代の日本やアメリカ、つまりは自由主義・資本主義の世界にも当てはまるように感じる人が多いということを挙げた。一見対立して見える両者がともに『一九八四年』的だと思えるとはどういうことか。
 たとえば、トランプ大統領時代のアメリカが『一九八四年』のモデルで理解されているという話は既にした。しかし、二〇一八年のアメリカと中国との摩擦の中で、ホワイトハウスが出した声明の中で、中国を「オーウェリアンorwellian」と批難する言葉が出ている(二〇一八年五月五日、https://www.whitehouse.gov/briefings‐statements/statement‐press‐secretary‐chinas‐political‐correctness)。オーウェリアンとは、『一九八四年』の世界を思わせるものに使われる形容詞である。互いに対立する両者がどちらも『一九八四年』モデルで理解されるという事態がまたここでも反復している。
 「This is Orwellian nonsense」と述べたあとで、文章はこう続く。「中国の国内のインターネットの弾圧は世界的に知られている。中国の、検閲と政治的正しさをアメリカやその他の自由世界へと輸出しようとする努力は、抵抗に遭うだろう」(私訳、強調引用者)。
 このアメリカの批難のレトリックは、インターネットの世界でよく見かけるものである。日本とアメリカで特に顕著な現象なのだが、「政治的正しさ」に基づく批難や、差別発言への批判を、いわゆる「言葉狩り」として理解し、自由を奪う『一九八四年』的全体主義であるとレッテルを貼る現象が随分と目に入る。
 「言葉狩り」とは、一九九三年頃に筒井康隆が行った「言葉狩り」論争で人口に膾炙した言葉である。民間の団体などが、作家や出版社にある言葉や表現を使わないことを要求し、新聞やメディアなどもそれに応じて使わない言葉などを作っていく事態を指し「言葉狩り」と呼ぶ。自作の教科書からの削除を要求された筒井康隆が抵抗して行ったのがこの「言葉狩り」論争である(おそらくこの論争にも『一九八四年』の残響が響いている。そう考える根拠として、筒井康隆は一九六五年に、『一九八四年』を下敷きにして、創価学会が政権を握った未来世界を描く「堕地獄仏法」を書き、様々な攻撃に遭遇し、命の危険すら感じていたということがある。詳しくは拙著『虚構内存在』にて)。
 ポリティカル・コレクトネスの要求や、差別(的に思われる表現)への抗議や批難が、『一九八四年』的な全体主義と見做されてよいのかどうかは、慎重な議論が必要である(民主社会主義者であったオーウェルは、デマや中傷をとても嫌っており、「社会主義」者でもあったのだから)。
 反PC的な運動をする人々はアメリカでは「オルタナ右翼」と結びつけられて論じられることが多く、フェイクニュースやデマなどの担い手であると(すなわち、『一九八四年』的状況の担い手であると)批難されている。
 この両者の批難がどの程度実態や事実に即しているのかを明らかにするのは、能力的にも、手法としても、この論の手には余る。この論は、『一九八四年』という世界認識のモデルがどのように言説の中で「使われているのか」を分析することで、この事態の理解に接近するというアプローチを採ろう。
 詳しくは次回以降に記すが、原子力政策、政権批判などのいわゆる「左派」の立場で『一九八四年』を「武器」に使えるのと同様に、いわゆる「保守」の人々も『一九八四年』を非常によく用いてきた。時には歴史修正主義者の考え方にも影響を与えたのではないかと思われる節もある。
 なぜこのように、イデオロギー的に対立する相手が、互いに互いを『一九八四年』の図式を使い批難しあう現象が起きるのだろうか。答えの一つは、『一九八四年』が、そう使えるように書かれているからだということだ。言い換えれば、『一九八四年』は、汎用性の高い作品として構想され、作られているということである。
 汎用性がある、言い換えれば、様々な物事の寓意として読むことができるのは、この作品が非常にシンプルな骨組みの構造としてできているからである。現実の事象は非常に複雑で多様である。しかし、その複雑性を削ぎ落とし、ある事態の重要な部分だけを分かりやすく「図式化」しているのが、オーウェルの『動物農場』や『一九八四年』である。だからこそ、汎用性があるし、様々な事態を理解するときの「図式」として人々が「使いやすい」のだ。
 オーウェルが意図的にそう書いたのだと判断する根拠がいくつかある。『動物農場』を書き上げ、『一九八四年』を発表する前の一九四七年に、オーウェルは「なぜ書くか」というエッセイを発表している。そこでオーウェルは、自分が書く目的のひとつに「政治的目的」を挙げている。それは「世界をある一定の方向に動かしたい、世の人びとが理想とする社会観を変えたいという欲望」(p12)である。「わたしの最大の目標は政治的な文章を芸術に高めることであった」「わたしの出発点は、つねに一種の党派性、つまり不正にたいする嗅覚である」「暴露したい嘘があるから、世の注意を促したい事実があるから、書く」(p17)とも言っている。もちろん、芸術性を無視するわけではない。政治的パンフレットと芸術が両立する作品を書くのが、オーウェルの目標なのである。
 文学作品の評価基準の一つに、現実や人間の複雑性や個別性、特異性を描いているということが挙げられることが多いが、その意味では、このような骨と皮だけ、構造だけの作品というのは、低く評価されるかもしれない。しかし、オーウェルが敢えてやっていたとなると、その評価には少し別種の軸が必要だ。
 「パンフレット」「プロパガンダ」として「使える」芸術を作り上げるというオーウェルの狙いは、それ以前の作品と比較しても明白である。晩年のディストピア小説二作『動物農場』『一九八四年』に比して、それ以前の作品は、より複雑な現実、事象、政治、社会、人間の有様を描いているのだ。『カタロニア賛歌』や『パリ・ロンドン放浪記』や『ビルマの日々』では、スペイン内戦や、パリやロンドンの下層の世界などに実際に赴き、そこで生活し、出会う人々や事件や生活の細部を記述している。決して図式化しえない人間と社会と世界の細部が活写されている。
 『動物農場』『一九八四年』が、オーウェルの中では例外的な作品なのだ。「世界をある一定の方向に動かしたい、世の人びとが理想とする社会観を変えたいという欲望」に基づいて書かれた「政治的パンフレット」が『動物農場』『一九八四年』である。おそらく、私たちは、このオーウェルが作った世界認識のモデルの影響下にあり、このフレームで人々が世界や事象を理解してしまう世界に生きている。だからこそ、オーウェルがこれらの作品でやったことは何なのかを、より深く理解する必要があるのだ。
 次回は、日本の保守論壇が『一九八四年』をどのように使ってきたのかを検証しよう。
(文芸評論家)
――つづく







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