書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆谷岡雅樹
太古の森へ――山岡信貴監督『縄文にハマる人々』
No.3360 ・ 2018年07月21日




■映画はそれ自体で完結しない。観客が観て育つものだ。今は、面白い映画になりそうなものであっても、そうはならない。観られなければ、「観て育つ」という状態は発生しない。現状の映画情報は確かに多い。だが「見せる」装置(映画評論も含め)も技術も乏しいし、仲間褒めと無視し合う環境で、作品それぞれが孤立し、一群の塊とならない。
 六二年生まれの私が子供の頃=七〇年代は、数少ない情報を必死になって追いかけていたが、観てもいないのに、その作品の核心にまでほぼ到達していた。それが証拠に、観ていなくとも、それほどに的外れな後悔や喪失にはならず、後年観ても、「観た/観ない」の境界は、観る前と観たあとにおいて、あまり変わらないのである。
 映画はまずもって、「見えて」いなければならない。見えないもの、薄ぼんやりとしたものであっては、観客は心を動かさない。つまりお金を払おうとしない。また、「見えて」いると、それが得体の知れないものであるほどに、お金をどんどんと注ぎ込む。もちろん、「見えて」いることがまず大事である。今は、「見えて」いない映画が多いので、育ちようもないのだ。評論家の解説自体が独りよがりの楽しんだ体験の吐露であり、「見える」状態化することに貢献しない。
 今私は、キネマ旬報社より、七〇年代映画のベスト一〇本のアンケートが来て、当時を振り返っている。全国映画館入場者数、いわゆる映画人口は五八~六〇年がピークだ。一一億人を突破していた映画人口は、七一年を最後に二億人を切り、今現在も二億を突破できないでいる。しかし、日本映画の本当に盛り上がった時期、最も愛された時期を私は、七〇年代~八〇年代初めとみている。というのも、映画人口では縮小しているが、テレビの黄金時代と同時期にあって、その両方を楽しんだ時代がまさにその時期であったからだ。山口百恵主演に合わせた「正月映画全部見せます」という年末恒例の番組が七四年から八三年。
 ラジオでは、各局の音楽番組で映画音楽が特集され、『ユア・ヒット・パレード』や『百万人の英語』における新着映画紹介、佐々木なほ子の『シネマニア共和国』、山根成之の『オレンジ通りの映画館』、特に関光夫の映画主題歌やスクリーンミュージックのコーナーでサントラ盤ブームも起きた。TBSラジオ「淀川長治ラジオ名画劇場」は七三年から放送開始。七〇年代後半からの『オールナイトニッポン』は、積極的に若いスターたちを、古いスターに対抗させて特集し、新しい映画の人たちを盛んに宣伝し、応援した。角川書店が提供していた、『きまぐれ飛行船』は、七四年四月から。映画と連動して、『日本沈没』や『愛と誠』などがラジオドラマで放送され、音でもって、画像のない世界で、想像力を遥かに掻き立てた。テレビには各チャンネルの「洋画劇場」があった。荻昌弘、水野晴郎、河野基比古、深沢哲也、木村奈保子、前田武彦、高島忠夫、そして淀長さん。「TVジョッキー日曜大行進」の中の福田一郎の映画情報コーナー、「モアベターよ」の小森和子やおすぎとピーコなどが、映画紹介コーナーに頻繁に登場して、映画の敷居をかなり低く、また若年層に広げることに貢献する。若い読者層が多かった月刊『平凡』『明星』『近代映画』の三つ巴の戦いが繰り広げられ、『少年マガジン』が火付け役となった「チラシブーム」も起きた。映画館で観る映画人口は減っても、巨大なテレビの洋画劇場や、ラジオを通じての映画音楽ファン、サントラ収集、チラシマニア、その他の狂人が有象無象に若年層を中心に存在したのである。つまり、映画のピークは一九五八~六〇年であっても、局所的に低年齢層が一気にのめり込み、嵌まり込んでいった時代は明らかに、七〇年代~八〇年代前半にあった、と私は考える。若い人の若い人による若い人のための若い映画の時代。
 さて『縄文にハマる人々』(以下『縄文』)である。七〇年代の作品群のような、本来、本気で己を問うている作品には、紹介程度で十分だった。今、育ちようがない作品は、過剰な解説と、下らない一生懸命な論説と、はしゃぎ過ぎ、騒ぎ過ぎの評論が、本編を白けさせているのであるが、その理由自体が作品自体のがつがつと物欲しそうな感じ、作り手の賞や一位が欲しそうな感じに、寄り添う評者たちという構図によっている。だが『縄文』にはそれがない。それは作者の佇まいによる。
 解説不要だった七〇年代の映画には、光と影が隣り合わせの裏表で見え隠れしていたことが大きな理由であった。作品を観て「よかった」という評価以外のことは大抵余分な説明であり、そのことを補うだけの現実が映画の背景に控えていた。
 かつて女子プロ野球が存在した一九五〇~五二年の一時期、東京巨人軍(のち読売ジャイアンツ)初代総監督の市岡忠男は、女子プロにも「ジャイアンツ」というチームを作る。京浜ジャイアンツだ。練習グラウンドは南番場だったが、合宿所は品川で、屠殺場があった。寺山修司脚本のテレビドラマ「一匹」の舞台だ。『縄文』を観ていて、このドラマがまともに思い出される。主人公の青森から出てきた少年は、故郷での友達でもある牛が、今この都市の解体処理場で、殺され泣いているシーンに重ねる。女子プロ野球自体が、たとえば前座としてストリップが行われ、そのあとに、試合が行われたりもしたし、地方巡業では、御座敷でのサービス込みのロードでもあった。牛の鳴き声を自らの境遇に重ねないようにしていた選手たち。この映画にはしかし、縄文土器に重ねて豚の解体が登場する。評論家の期待する「出来のよい作品」から、外れていくのである。
 去年(二〇一七年)四月に桑原武夫の蔵書を遺族に無断で一万冊廃棄した京都市が謝罪し、今年の五月には東大生協が画家の大作を廃棄し反省、というそれぞれの事件。だからと言って、価値の分かる者に所蔵されているものなのか。不審死した「紀州のドンファン」の家には、シャガールがあった。絵画も書籍も、まして映画も、価値と無縁の人間には、猫に小判だ。小判自体が、和同開珎や無文銀銭以前の時代や、同じ時代でも余所の国ではどうでもいいものだ。一体、縄文土器の価値とは何か。作中に登場する池上高志(東大教授)は、こう語っている。
 「縄文期の土器は、今あるロボットのように、生命として考えられるものとして、作られていたのではないか。あるいは生命を理解するものとして、そのヒントを与えてくれるものとして土器をつくっていたのではないか。定義よりも先に人間と相互作用を始めてしまったものではないか」
 この手の映画の多くは退屈だ。独りよがりのトンデモ学説の大スピーチを見せられ、呆れている監督が何の批評性もなく、観客と共に笑おうとして、却って失敗するような代物や、対象を対象化できずに、取り込まれてしまうもの、或いは投げだしたもの。
 本作には、監督自身の不安定で、それでいて中心線を失うまいとする姿が投影されている。従来の人類発達のストーリーから抜け落ちる「狩猟採集生活者でありながら、定住生活もしている」という縄文人たちに、自らが重なっていく。
 こう撮らねばならないとか、こう描いてはいけないといった、或る権力の側のタブーやお上の意向がまるで存在しない、どう撮っても文句の来ない無法地帯、解放区、お目こぼしゾーン、抜け道コースみたいな領域が縄文なのかも知れない。監督が手探りで、自分がなぜ興味を持つのか。自分とは何かを辿っている。自分探しというと、陳腐に聴こえるが、そこら辺のいわゆる「自分探し」映画は、実際には自分を探していない。単に「他人からの評価外し」でしかなく、本当の自分探しとは、もっとその先にある。他人の評価を取っ払ったところに現れる自分を見て、そこで安心するような「前段階のもの」「スタート地点のもの」では断じてなく、「自分とは何か」という狂った問いに正面から向き合う問題である。
 テーマは縄文だが、身体や精神の障害者や、LGBT、その他の少数派、もっと言うと社会や国から疎外された者の問題であり、夢を見ているようなところからしか始まらない実現不可能と考えられる問題でもある。
 フリーメイソンなどというと、キチガイ思想や怪しい部類の新興宗教などと一緒くたにされて一笑に付され切って捨てられるのがオチであるが、原発推進派も反対派から見るとそう映るのかもしれないが、真実や検証から目を背けたい人間ばかりの場合もある。
 多数派の人間の実態は、根を張った実生活者でもあり、まんざら不勉強、無理解、不愉快な人間たちばかりではない。トランプを選んだ如くに、本音がむき出しとなって、どんどんと新しい流れが生まれてくる。「ヤンキー先生」義家弘介のような教育委員会のお墨付き「出来のいい子」ではない、本物のヤンキー議員が、福岡県みやこ町では生まれ、元AV男優の横山緑は立川市市議会議員に当選した。
 「縄文」に入れ込んだ岡本太郎も、美術界だけではなく、面白がっては切り捨てるだけのマスコミでさえも、その扱いには困った。その後に蜜月らしい時期が訪れたのは、「扱い方」を覚えただけで、本質を理解共有したわけではない。それは、どんな一人の作家もまたそうである。誤解と無理解と共に、観る側が一緒になって創作していく。
 一万年前の縄文土器を見て、今どう捉えていいのか苦慮するが如くに、一万年後に十字架を見て、現代のキリスト教について再現できるのか? とも問う。
 この映画自体が、今まさにそのさなかに存在し、現代に十字架を突き付けている。
 科学技術庁長官だった田中真紀子がNHKのETV特集で、こう語っていた。「あれ(核のゴミ)を搬出するなんてことは出来ませんよ。納得してもらうことになる。結局国民みんなの問題なのに、大人しいところが背負わされちゃう」。
 その押し付けられる六ヶ所村の縄文村立郷土館から、この映画は始まる。
 流れる曲は、ブロンディ『銀河のアトミック』だ。
(Vシネ批評)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約