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評者◆宗近真一郎
「アメリカ問題」はすでに削除され、つねに復元される――さよならアメリカのためのエスキス⑧
No.3358 ・ 2018年07月07日




■いわゆる古典派経済学は「諸国民の富」を著したアダム・スミスによって扉が開かれ、後続世代のリカードやジェボンズを経てレオン・ワルラスによって均衡概念が確立された。経済史においては重商主義と限界革命の中間に位置するが、その後のケインズの登場やマルクス・エンゲルスの「資本論」による経済学の輻輳を経過し、第二次大戦後の時代では、アルフレッド・マーシャルが新古典派を領導し、ポール・サミュエルソンやミルトン・フリードマンによって古典派経済学の中心理念が継承されていると考えられる。古典派経済学の経済思想は、アダム・スミスの「見えざる手」によって象徴される。すなわち、「自由」な市場において、個々の市場参加者が個々の利益を追求して利己的に行動すれば、「(神の)見えざる手」が作用するかのように、最終的には最適な豊かさの配分が成し遂げられるという考えである。この最適な資源の配分が「均衡」と呼ばれ、「均衡」に向かって市場が動いていくには「自由」が確保されていることが前提である。フリードマンの「選択の自由」は、この「自由」を敷衍的に強調しており、市場原理主義やグローバル資本主義にも通底する。
 一見、通気性が高く、しかも、責任意識からリモートな考え方だが、因果律がシンプルであるだけに、注意してそのロジックを辿らねばならない。まず、「見えざる手」がなし遂げる「均衡」であるが、その超越性を統御するのはカルヴィニズム/ピューリタニズム(の神)だということを見逃してはならない。つまり、古典派(現代の新古典派を含む)経済学の背後にはカルヴィニズム/ピューリタニズムによる「世界制覇」というイデアが隠されている。次に自由な市場とあるが、「自由」は野生状態の欲望の赴くままの状態ではないはずだ。アダム・スミスには「道徳感情論」という大著があるが、そこでスミスは、「見えざる手」がしかるべく作用するための「自由」の「条件」である道徳感情について周到に述べている。現実的には、後者の「条件」が未充足なまま、前者のイデアが増長し、均衡=最適な資源の配分であるはずが、アメリカへの富の集中、さらに、アメリカのなかでもウォールストリートやシリコンバレーを頂上とする極々一部への富の偏差と格差の拡大が起こっているわけである。
 このように「見えざる手」の実質的な効力はほとんど消失している。逆に言えば、カルヴィニズム/ピューリタニズムの原理の野性が到達されてしまったということである。ジョージ・ソロスの市場原理主義批判と「相互作用性」の導入は、ウォールストリートのど真ん中における再帰性の実践と呼ぶことが出来る。ソロスはグローバル資本主義システムの不安定に関して、次のように言う。
 〈市場原理主義者は金融市場がどう機能するかについて基本的に誤った考え方をしている。彼らは金融市場は均衡に向かう傾向があると信じている。経済学の均衡理論は物理学との誤った相似性にもとづいたものである。物体はだれがなにを考えるかに関係なく、その物体が動くままに動くが、金融市場はある将来を予測しようとする。その将来は人々が現在行う決定いかんで決まるものである。金融市場は現実をただ受動的に映し出すのではなく、みずから積極的に現実を創り出すのであり、その現実はまた金融市場が映し出すものである。そこには現在の決定と将来の事態の成り行きとの双方向に作用しあう関係があり、これを私は相互作用性(reflexivity)と名付けている〉(『グローバル資本主義の危機』大原進訳、日本経済新聞社、一九九九年一月刊、二七頁)
 「相互作用性」は「開かれた社会」と連関する。逆に言えば、市場均衡の理論は、無意識裡に「市場」をカルヴィニズム/ピューリタニズムの摂理に範囲指定するバイアスがかかる。ムスリムだけではなく、アジアやロシアを繰り込めない市場は自己修復性と持続性を急速に失ったはずだ。ソロスは、物体と人間的思念を素朴に対位するが、物体を予定調和の一義性や原理化した超越性と読み換えてみれば、「相互作用性」が、グローバル資本主義の再帰性、すなわち、カルヴィニズム/ピューリタニズムの外部に自らを開く契機でありうることは瞭然である。例えば、いま・ここでなされる「決定」は「欲望」と不可分であるはずだ。「均衡」というものはない。「均衡」に終息する摂理もないのである。ソロスの著作の十年後に起こったリーマン・クラッシュ以降の金融市場で、依然として「均衡」を前提とした経済言説が主流であるという実態は否めないが、現実的には、「相互作用性」の強度のなかで、「均衡」の仮構性と脆弱性はいまや顕わなのである。
 二つ目のシークェンスもウォール街のど真ん中で起こる。しかし、二十世紀最大の投資家ジョージ・ソロスとは対極的な存在、ハーマン・メルヴィルが描いたウォール街の法律事務所に現れた書記バートルビーの死に至る拒絶の境涯に貫かれた世界への抵抗性である。物語(「バートルビー」、メルヴィル『幽霊船』坂下昇訳、岩波文庫、一九七九年十二月所収を参照)を辿ってみよう。物語の話者は、バートルビーを雇用した法律事務所の主で稀有なほどに寛容で思慮のある年配の男性である。ある夏の朝、新聞広告に応募して、事務所の閾の上に、蒼白く恭しく、じっと動かぬ青年バートルビーが立っていて、すぐに雇用される。はじめ、彼は機械のように大量の書き物を迅速にこなしたが、入社三日目に、急ぎの仕事を頼んだところ、バートルビーは、面妖なまでに柔和だが毅然とした声で、「ぼく、そうしない方がいいのですが」と言い、応じない。以降、バートルビーは、基本業務である写本や使い走りの外出を含め、すべての依頼を拒み、拒む理由を訊ねても、「ぼく、そうしない方がいいのですが」とひたすら反芻する。しかし、話者は、バートルビーの切迫的な気配に怒りを解き、琴線に触れ、精神を惑乱させるものを感じる。バートルビーの徹底した受け身の抵抗には苛立ちを禁じえないが、多忙なビジネスに追われて時間が経過する。バートルビーは食事を採らず、オフィスの自分のスペースから一歩も出ようとせず、日曜日にもそこに蟄居し、話者は、彼の孤絶と寂寥の姿によって生涯ではじめて突き刺すような憂鬱に捉えられ、友愛のメランコリーを抱く。
 バートルビーをどう処置したものか。事務所の主は、もはや書き物をしないバートルビーに退職金を付けて解雇を言い渡すが、「あなたのもとを去らない方がいいのですが」と言って事務所を立ち去らない。バートルビーは手ぶらで事務所を徘徊し、ビジネスにも支障が出始める。寛大な雇い主は、予定運命の奥義に達し、バートルビーが退散しないなら、自分が彼の許を退散すると決意して、すぐに事務所を移転する。バートルビーはがらんとした事務所に残り、移転先には現れない。ウォール街の家主は、バートルビーをオフィスから追い払ったが、彼は、建物のあたりを徘徊し、日中は欄干に座り、夜は入り口で眠るのである。その責任を家主に問われ、古巣の事務所に出かけた話者が、写本生や店員になることを薦めたところ、バートルビーは「いいえ、ぼく、なんの変化もない方がいいのです」、「いいえ、なんだかあれは獄の感じがし過ぎます。……選り好みはしませんが」とやや多弁に拒絶する。動転した話者が、数日、郊外を彷徨して事務所に戻ると、バートルビーを警察に送り、彼は浮浪者として収監されたという家主からの通知書が届いていた。うべなう気持ちにかられた話者は監獄にバートルビーを訪ね、顔を壁に向けたまま会話を拒否され、数日後に再度訪ねたところ、バートルビーは壁の根にうずくまって死んでいた。バートルビーが、かつてワシントン郵便省の「死に文(配達不能の手紙)係」だったというエピローグが付されている。
 「バートルビー」の孕むアレゴリーや象徴の構造が分かるように長めに要約してみた。バートルビーの拒否について、モーリス・ブランショが「あらゆる決定に先立つもの」であり、「同一性の棄却である」と述べたことを踏まえ、宇野邦一は、I would prefer not toという表現の「異語」性に注目して、父性を排除した〈新しい人間、特性のない人間、独創的な独身者たちの共同体〉(『アメリカ、ヘテロトピア』以文社、二〇一二年十二月刊、一八六頁)として構成されるアメリカを見出そうとした。さらに、デリダ、ドゥルーズ、ネグリ/ハート、アガンベンらの読解を踏まえ、大澤真幸は、〈バートルビーの絶対的な拒否が、ウォール街の金融資本の守護者である弁護士事務所を根底から揺さぶっている。とすれば、ここに革命の端緒、革命の精髄を詰め込んだ種子を見てもよいのではないか〉(『可能なる革命』太田出版、二〇一六年十月刊、三六八頁)と記した。資本主義に対するミニマムな抵抗と革命。どういうことか。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、カルヴィニズムにおいて、職業は「召命」、すなわち、神のような超越的な存在からの呼びかけへの応答として現れる。ブルジョワが自らの偶有性を充足するには、神の呼びかけに答える禁欲的な信仰者であらねばならない。バートルビーの無為(「しないことができる」)は、この呼びかけへの拒否である。一方、資本主義とは不断革命と「召命」のシステムであり、それを革命によって乗り越えることは不可能だが、〈この革命不可能なものへの革命的な挑戦が、バートルビーの絶対的な拒否、バートルビーの無為である〉(同前、三七八頁)。「召命」への拒絶が、プロレタリアートの偶有性(究極の選択の自由)として析出されたとき、ボルシェビズムが内在的に成立するのである。
 ボルシェビズムは革命の条件である。かつて、メルロ=ポンティがサルトルのウルトラ・ボルシェビズムを批判して、革命の「純粋行動」を対置したとき、純粋であることは不可能であることに等しかった。バートルビーの場合は、逆である。筆写するバートルビーが筆写をしないバートルビーと純粋に等価になったとき、ウォール街のど真ん中に強靭なサボタージュのモメンタムが析出される。それは、バートルビーたった一人の無為が、ボルシェビズムに裏返るということである。そのような、ハイ・レバレッジ(強度なテコの原理)は、ウォール街という、出かけてみればマンハッタン南の路地裏のような狭小な場所を、ほんとうに無為の路地裏へ回帰させるハイ・レバレッジでもある。グローバル資本主義の中枢の路地裏は革命への結界でもありうるのだ。
(評論家、詩人)
(了)







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