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評者◆藤田直哉
二〇一一年の『ニュースピーク』――現実や事実も変えようとする「力」が、上からも下からも苛烈に多元的に作動し、挟み撃ちになっている今をどう突破するのか
No.3357 ・ 2018年06月30日




■東日本大震災直後の日本がジョージ・オーウェルの『1984年』を連想させる状況であると指摘していた作家がいる。辺見庸である。
 辺見は一九四四年、宮城県石巻市に生まれた。共同通信社で勤めた経験を持ち、『自動起床装置』で芥川賞、『もの食う人びと』で講談社ノンフィクション賞を獲っている。彼が二〇一二年に発表した『瓦礫の中から言葉を』の中で、震災後の「メディア」の状況が『1984年』を思わせると指摘しているのだ。
 震災直後、TVのCMがAC(公共広告機構)のものばかりになったことを覚えている読者も多いのではないだろうか。辺見はその時のCM、通称「ぽぽぽぽーん」や「こだまでしょうか」を例に出し、「二〇一一年の『ニュースピーク』」(p82)と呼んでいる。
 少し長いが、辺見の発言を引用する。
 「『一九八四年』における「新語法」の目的は、オーウェルによれば、言語の単純化により人々に深く複雑な思考をさせなくし、異端や反抗の思想をもたせないようにすることにありました。人びとが本来もっていた豊かな語彙や思考法を制限し、体制や権力側のイデオロギーに反する思想が育たないようにして、支配を磐石なものにするためというのです。/つまり、「ニュースピーク」は、上からの強圧的言語統制なのですが、対比するに、3・11以降に日本で生じた言語表現上の怪現象の多くは、言うまでもなく、上からの強権的言語統制ではなく、メディアの自主的表現統制(自主規制)なのでした。日本という国では、「だれが責任をもってそう命じたわけでもなく、なんとなくそうなっていく」という、主体のない鵺のような現象がしばしば生じるのですが、3・11後の言語状況もそうです」(p83)
 ここでなされている重要な指摘は、『1984年』的な言語状況が日本にも存在しているが、それは「メディアの自主的表現統制(自主規制)」であり、「なんとなく」生じるということだろう。辺見が注意を促すのは、「上から」「国家から」の強権的な言論統制ではなく、「下から」「おのずから」生じるソフトな言論統制である。
 「メルトダウン」という言葉を使わず「炉心溶融」となぜか言い換えたマスメディアや、「定義がない」などと嘘を五年間も言い続けた東電を考えれば、この「言語状況」に似たものが震災後に起こっていたという指摘には頷けるところがある。
 実は、『1984年』に出てきた「ビッグ・ブラザー」のような、中央集権的な権力や監視の主体のモデルでは現在の問題は捉えきれないのではないかという提案は、国内外を問わず、いくつも提示されている。カナダ人のコリイ・ドクトロウは、IT技術と絡めてそれを『リトル・ブラザー』という小説で描いた。日本では、村上春樹が長編小説『1Q84』の中で「リトル・ピープル」として描いている。
 両者はそれぞれに違うが、インターネットや携帯電話やスマホの普及などによって、人々が言葉や画像を自ら発信し、同時に批判し、炎上などで「制裁」を加えあうような時代における、民間の相互自己監視社会を問題化しようとする点では共通している(情報技術や民衆への力の委譲を肯定するかしないかは、まさに思想的な課題であり、それぞれの書き手によって違うヴィジョンが示されているが、ここでは触れない)。
 メディア・テクノロジーの差による『1984年』との違いの他に、考えなければいけない差異は「日本」の言説空間や権力構造の固有性だろうか。辺見はそれについて、このように述べている。
 「個を不自由にしているのは、かならずしも国家やその権力ではなく、「われわれ」が無意識に「私」を統制しているという注目すべき側面があります。上からの強制ではなく、下からの統制と服従」(p31)。「戦前、戦中の日本の天皇性ファシズムは(…)かならずしも上からの絶えざる強圧的統制、全面的かつ暴力的弾圧を必要とするものではなかったともいわれます。下(民衆レベル、マスメディア、教育・文化界)からの協調主義的全体主義化や日々、自然に醸成されていく“おのずからのファシズム”といった側面もありました」(p85)
 『1984年』と現在の「ディストピア」的な現実の重大な差として、「下から」「分散型、民間、自主検閲」構造があるということは、現代の「ディストピア」感を考察する上ではとりあえずは受け入れてもいい見解だろう。
 とはいえ、二〇一八年現在の「現実」を考えた場合、果たして「下から」ばかりを強調しすぎることが正しいのかどうか。政権からのマスメディアへの圧力などを見るに、「上から」の言論統制も存在すると言うべきであろう。政府与党が嘘をつく、財務省が公文書を書き換える、防衛省が日報を書き換えるなどの行為もまた「下から」と言えるのだろうか。
 むしろ、現在では「おのずから」「下から」を逆手にとって悪用されているのではないだろうか。「職員が勝手に忖度してやっただけで、上には責任がない」論法のことである。「直接言ってはいないが、力関係的に実質的な強制力が働いているような、空気を読んで自発的に何かをさせる権力」が責任逃れにそれを利用しているのだ。
 確かに、SNSや「空気」などとして現れている「下から」の問題こそが新しく警戒されるべき問題であり、強権的・暴力的ではないソフトな形で検閲や統制が起きていることに対して鋭敏になるべきだというのは、正しい認識だろうと思われる。だが、現状、明らかにそれだけでは足りない。言葉を操作し、思考や内面に介入し、現実や事実も変えようとする「力」が、上からも下からも苛烈に多元的に作動し、挟み撃ちになっている今、どのようにすればこの状況を突破できるのか。
 ひょっとすると、日本の場合は、問題はものすごく根深いのかもしれない。辺見の言う「おのずから」「下から」という言葉には、もうひとつのニュアンスがある。「自然」と「地面」という意味合いである。「大震災は人やモノだけでなく、既成の観念、言葉、文法をも壊したのです」(p15)との発言がそれを証する。つまり、「二〇一一年の『ニュースピーク』」や現代日本の『1984年』的状況の発生源は、東日本大震災であると示唆している。
 この考え方を受け入れるとしたら、少なくとも日本の場合における問題は、言語観や権力観の基盤にある、自然災害に畏怖的な感情を覚え、自然を神のように感じてしまうような無意識レベルでの宗教的な感情にまで降りていかないと解決できないのかもしれない。(文芸評論家)
 ――つづく







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