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評者◆睡蓮みどり
秘められた深い欲望の物語――ロマン・ポランスキー監督『告白小説、その結末』
No.3357 ・ 2018年06月30日
■告白欲というものがあるのではないかと思う。この言葉自体が何かしら定義されているわけではないし、一般的に共感しうる欲求であるのかどうかはわからない。自身の欲望のなかでも群を抜いて高いのは睡眠欲なのだが、三大欲求以外に深い欲望を挙げるとしたら告白欲だとずっと思ってきた。そういう欲が強いから逆に自伝小説だとか、告白小説に反発してしまうふしがあるのかもしれない。見渡せば誰かのちょっとスキャンダラスな人生がこれでもかというほど手軽に溢れかえっているし、どこか過剰に書かれがちだというせいもあるかもしれない。特に、自分で自分のことを赤裸々に書くこと自体の胡散臭さや、そこまで語ることができてしまう主人公の自己陶酔的なところが好きになれなかったり、なんだか信じられなかったりするのは単に私がひねくれているのだろうか。確かにどこかで、フィクションの作られた面白さというものを信じたいという願望が自分のなかにはっきりとある。どこからがフィクションでどこからがノンフィクションかというのを読者は結局分かり得ないにせよ、告白小説に一定のバイアスをかけてしまうところがある。
映画監督、ロマン・ポランスキーの人生は、作り込まれたフィクションさながら奇妙であることはよく知られている。3歳でポーランドに移り住み、のちにアウシュヴィッツに連行される。1969年には8ヶ月の子供を身ごもっていた妻で女優のシャロン・テートが、チャールズ・マンソン(2017年に死亡)率いるカルト教団によって惨殺されたのは有名な話だ。ポランスキーと結婚した翌年で、彼女はまだたったの26歳だった。何度聞いてもその壮絶さに驚かずにはいられない。1977年には仕事関係にあるモデルで13歳の少女を淫行したとして訴えられるも、事件現場となったジャック・ニコルソンの家のあるアメリカから撮影を理由に逃亡、結局その後も彼女を含めた4人の女優たちから訴えられることになり、近年ではMe too運動を「集団ヒステリー」と呼び反感を買った。 語弊を恐れずに言えば、ポランスキーならやりかねない、というのがニュースで知ったときに率直に思ったことだ。起こってしまった事件に対して擁護するつもりは全くないし、それが長い時間を経て公表されたからといって無効になるわけではないことは大前提として、ポランスキーなら、というのは取り憑かれたような狂気の作風であることが大きな理由だろう。一方で、初期に『反撥』という、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画を撮った人物だとは思えないという驚きもある。ドヌーヴ演じるキャロルはとても美しく若い娘だが、姉とその恋人のいちゃつきぶりに嫌悪感を覚えるとても繊細な娘で、そこで描かれる女性性とミサンドリーの念が強まり神経衰弱してゆき、やがて事件が起きる。この映画を最初に観たときの衝撃は忘れない。その暴力性、そして細胞の一つ一つが震えるような感じ方をしたことを。 テーマとしてフェミニスト発言を繰り返したり、差別意識への反発、自由、平等と叫びながらも、相手が嫌だと思う行為をしてくる人間たちというのは思いの外多いということは現実問題としてある。実際、それに気づいていない人たちは後を絶たない。映画監督としては『オリバー・ツイスト』『戦場のピアニスト』などの代表作の他、コンスタントに撮り続け今年85歳。ゴダール、イーストウッドのちょっと下の世代になる。私は映画監督としての、鬼才としての、巨匠としてのロマン・ポランスキーしか知らない。 最初に映画を観たときからすでにそうだったのだ。だからいま改めて思うのは、作品そのものをまっすぐに観続け、作品について語ることしかないのではないかという、ごくごく基本的なことしかできないような気がしている。 ポランスキーの映画を観ていると大概尋常じゃなくなることがこれまでもあったので、ある意味でまたそうなるだろう、という妙な余裕を持って観はじめた『告白小説、その結末』である。甘かった。途中から余裕などというものが全くなくなり、いつの間にかとんでもないところ に連れていかれてしまった。私生活をも共にするエマニュエル・セニエと、007のボンドガールにもなったエヴァ・グリーンのダブル主演で、人気作家であるデルフィーヌと、その前に現れた美しくミステリアスな女性Elle(彼女)をそれぞれ演じる。Elleはデルフィーヌの理解者でもあり、マネージャーでもあり、熱狂的なファンでもあり、心の支えとなり、やがて創作のミューズへと変化を遂げる。 Elleは確かに聡明で魅力的だが、デルフィーヌの仕事関係者や友人に包囲網を張ってしまったり、いつの間にか家に住み着いたり、同じ洋服を持っていたりと図々しくもある。懐疑の念はありつつも、それをすんなりと受け入れてしまうデルフィーヌの心酔ぶりには観ていて不安になりながら、Elleの本当の目的は何なのだろうかとついつい探ってしまう。実はこれまでミステリー作品などで、映画を観ながら、あるいは小説を読みながら犯人を一緒に探したことなど一度もない。謎解きに興味がないのだ。この作品に散りばめられたメタファーや言動の一つ一つからElleの存在を読み解こうとしていることに気づき、好奇心を持った瞬間にElleの力強い瞳に睨みつけられ動けなくなる。 前作で、精神を病み自殺した母親のことを描いて人気作家となったデルフィーヌは、新作がなかなか書けずにスランプ状態に陥っていた。次こそはフィクションを書きたいと思いながらも、もっと自分のうちにある秘密の物語を書くべきだとElleは助言する。やがて心も生活もElleとともにあるうちに、デルフィーヌはElleの過去に興味を持ちはじめるようになる。しかし彼女を探ろうとすると、デルフィーヌは徐々に衰弱していくのである。デルフィーヌには文芸評論家の夫もいるが、仕事のためと別居する生活を送っており、成人した子供たちとは以前ほど連絡も取らなくなっていた。 本作の原作は『デルフィーヌの友情』というフランスの作家デルフィーヌ・ド・ヴィガンのベストセラーである。ただこの「告白小説」はありふれた自伝などでは当然なく、スキャンダラスな、暴露本の類とはむしろかけ離れているものであり、これは自己陶酔的なのではなく自己陶酔そのものだ。秘められた深い欲望の物語だということに直面しなければならない。 ポランスキーは倒錯した世界を描くのが非常にうまい。主演女優二人も初共演とのことだが、この二人のキャスティングは本当に素晴らしいと思う。『アクトレス~女たちの舞台』でジュリエット・ビノシュ演じる往年の女優の孤独と美しさを魅せつけたオリヴィエ・アサイヤスが共同脚本に入っている。深みにはまっていく二人の関係を、覚悟を持って直視してほしい。 (女優・文筆家) |
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