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評者◆宗近真一郎
「アメリカ問題」はすでに削除され、つねに復元される――さよならアメリカのためのエスキス⑦
No.3357 ・ 2018年06月30日




■さきに、アメリカ滞在の当初は「発見」に満ちていたと書いた。しかし、ブルームの顰に倣うなら、アメリカを「初めて発見」したと小躍りしていたぼくは、LAに降り立ったその日から、すでに「アメリカ人」だったのである。フリーウェイを疾走しながら、これが「スターウォーズ」の戦闘的シーンの加速感とスリルの元型だと悦に入ったとき、実は、ぼくがアメリカを「発見」したのではなく、アメリカという時空がぼくを「発見」し、ぼくというアメリカにおける非「よそ者」を走査し始めたのだ。非「よそ者」はアメリカに受容されるわけではない。依然として構成途上にあるアメリカは、非有機的統一体として非「よそ者」を「発見」し、監視している。現実的に、誰が監視するのか。それは、神話作用の走査線であり、つまり、ぼくが見出したアメリカという空虚によってぼく自身が見出され、非「よそ者」としてアメリカという空虚に算入されていたのである。
 フォークナーは一九五五年八月に来日したときに、彼ら(アメリカ南部)もまた南北戦争でアメリカ合衆国(北軍)に敗北したから、日本人の気持ちがわかると言ったそうだ。このことに言及した若年の柄谷行人は、フォークナーはアメリカ合衆国という虚構の下に抑圧された「南部」に沈殿する言葉以前の存在性を奪還不可能な肉感的な言葉においてのみ招集したと述べ、江藤淳について、〈江藤氏のアメリカ体験には、どこかフォークナーと似たところがある。合衆国に適応すればするほど、ある深い空虚にみまわれる。適応しえないよりも、適応しうる方が恐ろしい。彼を引きとめる力はなにもないからである。そのとき、たしかに江藤氏は「沈黙の言語」としての日本語以外に自分を日本につなぎとめるものはないと書いたはずである〉(『書評集』読書人、二〇一七年十一月刊、三五〇頁)と描いた。実際、「アメリカと私」における江藤のアメリカへの梗概は相当なものだった。彼がアメリカに対して様々な局面で示した嫌悪感は、アメリカに適応することへの畏怖、自らが空虚へ算入されてしまうことへの畏怖と張り合わされていた。
 また、アメリカ北軍の「正義」をかかげて「生」から遠ざかるカルヴィニズムの雰囲気よりも南部の肉感性、官能性に親近感を抱き、アメリカの若い女性の話し声に「存在の芯」の欠如と「空洞」を感じた江藤淳がアメリカに「国家」を発見したと指摘する宇野邦一は、〈おそらく問題は、〈国家〉としてのアメリカか、そうではない〈生成〉としてのアメリカか、という点にかかわっている。江藤は国家としてのアメリカには関心をもったが、アメリカそのものにはそれほど関心がなかった。その点でも彼はアメリカを「空虚」とみなすしかなかった。しかし空虚はただ江藤自身が自分の空虚感を投影したものでなければ、決してただ空ではなく、そこに何かが潜み、何かが空虚としてあらわれたのだ〉(『アメリカ、ヘテロトピア』以文社、二〇一二年十二月刊、二〇三頁)と記した。伏在し、「空虚」として出現するのは、〈つまりアメリカ人は、ひとりひとりが小国家なのだ〉という「倒錯的事態」なのだ。ミクロな国家、原子論的(スピノザ的次元)国家として、恒常的に生成するアメリカ。その意味では、ひとりひとりが神話作用のなかにある。あるいは、新大陸という世界模型の継承者である。ところが、アメリカは権力の無限の分散を世界権力として動態的に裏返す「構成的権力」として強固に実在する。だから、「空虚」に対する江藤の防備は、捩じれへの感受性において、まっとうだったと言えようか。
 一九八〇年代後半のアラン・ブルームは、古き良きアメリカへ憧憬したのではなく、「構成的権力」のバランスが内在的に揺らいできた事態を嘆いてみせたのかもしれない。あるいは、「アメリカン・マインド」というものは、そもそもなかった。この著作の刊行から第一次湾岸戦争までは僅か四年。「構成的権力」を仮装するもうひとつの構造が壊れ、やがて、西谷修が、鵜飼哲、宇野邦一との鼎談『アメリカ・宗教・戦争』(せりか書房、二〇〇三年三月刊)において、アメリカを次のように素描してみせたように神話も解体したわけである。〈アメリカは、起源までたどれば、ヨーロッパ公法秩序から離脱するために建国し、その後ずっと独自路線を歩いてきた国です。一度も他者に浸透されることのない、むしろ自分のところが移民を受け入れて、移民たちによってできたことで、「ここにすでに多様な世界がある」という構造を内部として持っている国で、それが国家の行動をあらかじめ正当化する、なおかつその国の正義の遂行というのは、これまで一度も否定されてことがないから、この国はなんでもできる〉(一二二頁)。

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 理念として全員が「よそ者」だから、アメリカには「よそ者」がいない。しかし、「よそ者」がいないと確信されるためには、アメリカ合衆国が確信されねばならない。この確信は、アメリカ国家自体と、アメリカ人ひとりひとりに同一の世界模型を配分した。その同一性の根拠、おそらくフロンティア・スピリットを守護するかたちで伏在し、それをパフォーマティヴに駆動するためのミッションとして伏在してきたのがピューリタニズムとカルヴィニズムである。
 さて、四番目のポイント。アメリカが唱導するグローバル資本主義と現在の日本を貫くネオリベラリズムにおいて、全てのことが「経済」に集約される。冒頭で述べたように、アメリカを震源とするグローバリズムとは、普遍「経済」主義によって世界の隅々までを制覇しようとする運動性である。では、「経済」的ヘゲモニーが行使する収奪のメカニズムに張り合わされたグローバリズムにどう抵抗するのか。ぼくは、その鍵は、「経済」や「交換」をイデオロジカルに否定する論理を研ぎ澄ますのではなく、ぐんぐん増長するアメリカの「経済」至上世界主義(世界は「経済」だという断定)の背後にあるピューリタニズムとカルヴィニズムは、つねにすでに大きく揺動しており、その揺動をきっちり地上に引き降ろしてみせることだと考える。シークェンスは二つあり、ともにグローバル資本主義の中枢に位置するだろう。
 ひとつは、世界最大級のヘッジ・ファンドであるソロス・ファンド・マネージメントの総帥であるジョージ・ソロスが、アメリカで一九九八年に著した『グローバル資本主義の危機』において、資本市場や為替市場の大半の参加者のマインドを占め、そのシステムが稼働する原理を構成する市場均衡理論に「相互作用性」という考え方を対置したことである。ソロスは一九三〇年生まれのハンガリー系ユダヤ人、ナチズムとスターリニズムを生き延び、苦学して名門ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)を卒業し、一九五六年以降、アメリカに移住した。LSEでは、カール・ポパーに師事し、博士号を得ている。この著作では、「相互作用性」、「誤謬性」、「開かれた社会」のフレームワークに言及されるが、基本的に、ロシア金融市場のメルトダウンとアジア通貨危機という投資家としての修羅場を踏まえて書かれており、グローバル経済に対応するグローバル社会もグローバル民主主義も存在しないと言い切って、それらを形而上的に追求するスタンスはない。つまり、ソロスのモチーフは最初から最後まで、いかにマネーゲームに勝つかということに尽きる。しかし、九〇年代後半の金融市場の混乱の経験から、いわゆる市場原理主義者が確信する市場の自動修復機能の不可能性を見据えて、従来の経済学が依拠している「均衡」の概念を金融市場にも敷衍するだけでは、市場のフレームが持続できないことを画期的なロジックでむき出しにしたのである。
(評論家、詩人)
――つづく







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