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評者◆谷岡雅樹
創作とは、つくることなり。盗んではいけない――相原裕美監督『SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬』
No.3352 ・ 2018年05月26日




■『SUKITA』を観る。時代を捉え、デビッド・ボウイーやマーク・ボラン、イギー・ポップの一瞬を刻んだ写真家鋤田正義のドキュメント映画だ。写真家の良さとは一体なにか。
 ミック・ロンスンを下から抱えるボウイーの写真を撮ったミック・ロック。ボブ・グルーエンの撮った「New York City」Tシャツのジョン・レノンは真正面を見据える。スティングと家族ぐるみの親しい付き合いをする写真家浅沼ワタル。
 私の友人にも内藤陽介というスティングを撮った男がいるが、彼は数年前にカメラを置いている。外に出ない写真をいくつも撮っていた。いったい、どこが決め手なのか。
 現実には「付き合い」「触れあい」といっても、仕事から始まるもので、それが友情と言えるものなのかどうかの疑問は最後まで消えないはずだ。それでも、彼らの写真には、友情とか、時間とか、記録されないもの、背景に存在するであろう見えないもの、隠れているけど確かに存在する温かさがある。それは、共犯関係の痕跡ではなく、「痕跡から離れようとする印画不能なものの心地よさ」である。共犯のアリバイ証明から最も離れたものだ。
 その前に、アラーキーである。写真家荒木経惟と被写体とのギャラや肖像権の契約合意について、或いは性暴力、人権侵害行為をアートの美名のもとに覆い隠そうとしているビジネスなのか、という問題である。
 ファンがスターに会うとツーショット写真を撮りたくなる。写真家も美しい人を見ると、撮りたくなる。それはときに商売にもなる。悲劇の現場であれ、観光地であれ、珍しいものに出会うと(三月にジンバブエでカバと自撮りし死亡事故が起きている)、撮りたくなる。それは証拠写真であり、痕跡の提示である。そこに居た。それを見た。その瞬間を撮った。スターの素顔、人間の裏の顔、撮らせてくれない陰の部分。だが盗んではいけない。
 心に傷を付ける能力を持つ暴力装置を手にして、人は、俳優を、アスリートを、生活者を、撮る。そこでは鍛え抜かれた演技力を横取りされ、言語を発する肉体は損なわれ、歴史と習慣に培われた背中の側と睡眠中の姿が掠め取られる。つまりは、自分自身の宝物の一部と恥ずかしさとを引き渡す行為に等しい。大切に育てた我が子を送り出すときに、「お願いします」と言うのは、それは「大事にしてください」と言うことである。
 障害者のための施設づくりを、障害者ではない人間たちが「障害者のためを思って」行った形が、さっぱり実情にそぐわない場合が多い。女性のための「男による」参画社会、白人による黒人のための居場所。暴力団同士の抗争Vシネマのように、アラーキーがアラーキーを撮るのは構わないが、アラーキーがカタギを撮るのは可能だろうか。共犯と言うけれども、無理やり手伝わされた共犯ではないのか。“神さん構うな仏ほっとけ”とは、得体の知れない芸術家たちへの嫌悪と忌避を示すカタギの知恵だ。アラーキーは、この知恵を逆に利用し、もしくはその態度に甘えているのではないか。或いは、アウトローな食み出し者の、不思議さ、不道徳、不倫理を半ば諦め、また許容し、面白がって楽しみもする空気や風潮、風土、お国柄に悪乗りしているだけなのか。鋤田正義は、一人のスターを長く追いかけるのは自分のライフワークの一つだと言う。それは責任を負うことでもある。
 映画はその画面だけから情報を得て評するものだと言う人がいる。だが、撮った人間の素行の良不良は別として、生き様が出る。過去に何を撮ったということよりも、作者が普段どう生きているかの情報をこそ、私は出来るだけ欲しい。写真ならばなおさらだ。
私は、絶対にあると思っている。人間性の対峙する瞬間がそこにある。鋤田はそこにいる。
 ベレー帽の報道写真家が、どれだけ優れた写真家なのかは、私には判別がつかない。しかしNHKの『ディープピープル』という番組で、宮嶋茂樹と高橋邦典との三人が鼎談しているのを見て、わかることがある。ベレー帽(渡部陽一)は、ほとんど相手にされていないばかりか、話にもついていけない。持ちネタをやることすらできていなかった。賞がそのプロや「家」を保証担保し、マスコミで取り上げられる頻度と実力が比例するものではないが、バスキアだって、ウォーホールが取り上げなければ、だれも知らなかったかもしれないし、そのウォーホールが、「誰でも一五分は世界的な有名人になれる」という名言(皮肉)を残しているが、それほどにどうでもいいことであるわけで、マスコミやメディアという二〇世紀に生まれた欲望消費システムは、その人間の大きさを等身大から乖離させていく。思想や表現がどれほどに社会に役立つものかについて、研究費(作家ならギャラや取材費)はいくらくれるのか? という問題に還元していくことで堕落する。理想を言うと、作品の価値は無償性をどう保障されるのかということであり、自由とは、創作の誠実さに「向き合うこと」のできる知性が社会的に代償するものである。映画や絵画や写真がそれをもらえず滅びていくのとは対照的に、しっかりと誠実にやることで突破できる世界は確かにある。しかし、それを恨みに思ってやるものが芸術ではない。
 鋤田は、被写体を大事にす
る。でっぷりと太った山本寛斎や決して引き締まったとは言えないイギー・ポップが、やはりそれほどシャープではない鋤田の体形と共に併写されている。しかし、それを面白がっている作者の「我」が先走ることはない。嫌味の爪痕を残さず、目立ちすらしない。渾然一体としている。これは鋤田の写真と同様である。
 鋤田正義自身、美しい被写体ではない。かと言って味のある別の負のオーラを持ったアラーキーのような姿形でもない。しかし映画は彼が浮かび上がるように出来ている。それは画面の中で、他の目立つ兵どもが、鋤田を褒めちぎっているからではない。彼らは鋤田に撮られた存在であることを忘れて語っているのだ。
 『ニッポン国VS泉南石綿村』で監督の原一男が後半いきなり画面に現れてくる。原の登場は、映画が娯楽であるという自明の理によるギャグであり、ファンの期待にこたえるサービスカットでもある。しかしこの映画は、アルバムジャケットを撮る鋤田のように、鋤田と鋤田の周辺を「押えて」全く声も人間も出てこない緻密な仕掛けが施されている。
 ジャケットが音楽の添え物、付録だと考える者は多い。本来は引き立て役だった写真が、時代が流れることでむしろ独り歩きして、音楽自体が風化し、或る時にはジャケットに纏わりつくBGMでしかなくなる場合もある。ジャケットの最良の構成要素として磨きがかかったりもする。デビッド・ボウイーのジャケット写真に、鋤田の故郷直方での幼き日の母の原風景が宿っ
ているように、この映画自体に監督のそれが既にあるのではないか。鋤田の可能性に賭けている相原裕美という監督がいる。これは、七七~七八歳という一定期間を追い、一人の人物像に迫った従来のドキュメンタリーとは違い、スパッと一瞬、一断面を切った写真のような、印画の瞬間のような作品だ。
 人物を撮る場合、結局カメラマンが盗み撮りでもしない限りは、鑑賞者は「カメラを意識する人間」を見ることになる。つまりは関係を見る。カメラは人を撮っているようで自分を捉えている。被写体と自分との関係が写し込まれる。騙したり裏切ったりする様も写り込んでいく。ときに被写体も共犯関係となってしまうのがストックホルム症候群的な切なさである。連続保険金殺人の「黒い看護師」も、騙されていることをわかっていて、誘導される。会社の過労死も、やってもどうにもならないことをわかりながら残業し、死んでいく。会社という名のサイコパスに、抵抗できない形で、逃れられない仕組みで、死に向かわされている。わかっちゃいるけど死に向かう。実態が明るみに出なければ、或る連中の目には、芸術家は以前のまま芸術家であったのだろう。
 小山卓司は歌う。♪ディレクターは優しいかい。マネージャーはよくしてくれるかい。ボスは次は君の何を奪うつもりなの。『nature』誌さえも丸め込めたら、自殺した笹井という小保方晴子の相方の男は「嘘(を含めた権力)で」やっていこうという腹づもりがあったように。新型の薬は、天動説であって、プラシーボ効果があるのは、学界内だけだ。
 撮った写真やドキュメント映像に「信頼関係があった」かどうかの判断は、観る側からしてみると、そう簡単ではない。かといって、裁判所に委ねる問題でもないだろう。
 人を傷付けて何がアートなのか。ミューズの何を撮ったのか。
 アートと言いながら、実のところ、人間の尊厳以上に、経済的な価値を生み出すことによって意味を見出し、そうでなければ価値を失っていくものならば、彼らは、皆がこの社会を生きるということを守る方向に立ってはいない。危険な所業である以上は、撮られる側は警戒すべきだ。カメラは暴力だ。
 撮られる側は、良く撮ってもらおうとカメラに抵抗する。『小三治』はその試みが画面に溶けた。『あがた森魚デラックス』は確信的に自爆した。「ザ・ノンフィクション」の望月六郎もダメさを逆手にとって失敗する。「しゃべり場」の立川談志、寺脇研しかり。独特の意匠をまとう草間彌生。彼女のウソつきだらけの魅力をNHKのドキュメントでは暴いていたディレクター松本貴子がしかし、映画『氷の花火・山口小夜子』では一転して、「山口小夜子に届かない」自らを曝し、成功していた。刀を突き付けてはいけないのだ。
 「ホット、ホット」でお馴染みの俳優藤井隆は、テンションの高い役をやる時こそ、落ち着いてやるという。本当にテンションが上がるとセーブが効かず、周りが見えず、相手を怪我させたり下らないことをやってしまうからだ。命がけで被写体を守り、荒々しい時こそ、最も冷静に傷付けないよう大切にしなければならない。
 画面の中、永瀬正敏は、鋤田をこう評した。
 「被写体に対する愛情が深い。彼は守ってくれた」
(Vシネ批評)







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