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評者◆藤田直哉
「ディストピア」作品の政治利用――オーウェルの「ディストピア」小説とは、現実の政治と強く結びついた論争的性格を帯びた作品である
No.3352 ・ 2018年05月26日




■本論は、「現実がディストピア化している」という感覚それ自体を検討するための論である、と前回述べた。今回は、その感覚に対する「そもそも論」的な話をしたい。
 ディストピアとはフィクションなのだから、現実がそうなるなんてことはないのでは、という素朴かつ無粋なツッコミをまずは入れてみることから、この問題に切り込んでいくことにしたい。
 「ディストピア」は、「ユートピア」という言葉に対するアンチテーゼとして作られた言葉である。「ユートピア」は、トマス・モアが使った言葉で、ギリシア語の「場所」(〓)に「ない」(〓)という接頭辞をつけたものだ。つまり、「ない場所」のことである。
 ユートピア小説が理想的な世界として描いたそれを、むしろ悪い場所として描くことで皮肉なり批判精神を発揮しようとしたのが「ディストピア」作品である。たとえば、理性によって統制された世界を理想郷として描く作品に対して、「理性偏重になりすぎるとこんな大変なことになるで」と裏返した皮肉で応じる、などのケースである。ザミャーチン『われら』、ハックスリー『すばらしき新世界』などがその例となる。
 あるフィクションの中身をひっくり返すという皮肉は、単なるフィクションの形式の問題だけではなく、現実の政治状況とも関係している。フィクションの中で描かれる理想郷はその時代において支配的な価値観(イデオロギー)が当然影響するし、フィクションそれ自体が欲望や感性・認識に影響し、政治思想を形作るという相互作用が存在しているからである。
 実際、ディストピア小説は、現実の世界で進行している政治的な状況に対して介入する意図で書かれている。前回から扱っているジョージ・オーウェルは、まさにその典型である。彼のもうひとつのディストピア作品『動物農場』(一九四五)のウクライナ語版での序文で、刊行の意図を語っている。それは「民主国での啓蒙された人々の意見を、全体主義的なプロパガンダがどれほど簡単にコントロールできてしまうか」(ハヤカワepi文庫、山形浩生訳、p178)についての教訓を学んだオーウェルが、スターリニズムのソビエトの全体主義と、それについて批判をしようとしないイギリスの状況を批判するために書かれた。プロパガンダに騙されてナチス政権やソ連に幻想を抱き、見抜けないでいた当時のイギリスにおいて、「ソ連の神話破壊」(p181)を断行するための寓話なのである。
 このような問題意識をオーウェルが持つに至ったのは、一九三六年に勃発したスペイン内戦のために戦いに出かけ、ファシストであるフランコ政権と戦っただけでなく、同時に起こった「政府を支持するさまざまな政党同士の内部抗争」(p178)に巻き込まれ、目で見た事実とは違うプロパガンダが垂れ流され、人がそれを信じ、事実がかき消されていく経験をしたからである。オーウェルが属していたのはPOUMと呼ばれるスペインのトロツキストだった。この具体的な経緯は『カタロニア賛歌』で見事に活写されている。
 前線での共産主義ユートピアのような世界から一変し、内部抗争である市街戦が起こると「悪夢のような雰囲気」(岩波文庫、都築忠七訳、p211)へとあっという間に変わる。「たえず変化する流言」「検閲をうける新聞」「政治的な不寛容」が吹き荒れ、ホテルにいる外国人たちは「ここの雰囲気ときたら、まったくいやだ。精神病院にでもいるようだ」(p212)と嘆く。デマによって事件の責任を別の党派に擦り付けたり手柄を横取りすることについて、「チェスの試合の途中で突然、相手が放火や重婚の罪があると片方の選手が絶叫するようなものである。大事な問題点はふれられないままである。中傷は何も解決しない」(p340)とオーウェルは述べている。これらの状況は、どこか東日本大震災以降の日本の状況を強く思わせる。少なくともインターネット環境では、牧歌的だったゼロ年代とは違い、現在ではオーウェルがこのように書いたような殺伐とした状況が訪れているように思う。なぜそうなったのかの分析は、また稿を改めるが、とても遠い世界の別の時代の出来事とは思えない切迫感を持って『カタロニア賛歌』は読めてしまう。
 さて、オーウェルが『一九八四年』や『動物農場』などのディストピア作品を書いたのは、政治的な争いに付随するメディアを巻き込んだプロパガンダ合戦の中で「事実」が消えていくのを経験したからであり、両方の作品は、寓意を通じて現実の政治的な状況を批判し、告発し、あまつさえ、変化を引き起こそうとする意図を持った作品であるということは確認された。オーウェルの「ディストピア」小説とは、現実と切り離された美的空間を楽しむタイプのフィクションではなく、現実の政治と強く結びついた論争的性格を帯びた作品であることは確認されてよい。それだからこそ、人々が現状の政治的状況を認識する助けに使うのは自然だし、これらの本が武器になることにも不思議はないのだ。
 しかしながら、トランプ政権下のアメリカや、安倍政権下の日本で『一九八四年』や『動物農場』の寓意が、現状を理解する助けとなっているということ自体は、少し真剣に検討する必要があるかもしれない。というのは、これらの本は、明確に、ソ連を批判する反スターリニズムの立場で書かれているからだ。それが、民主主義で自由主義である日本やアメリカの寓話のように読めてしまうことには、何かの皮肉が隠されている。
 川端康雄「冷戦下の『動物農場』」によると、オーウェルの作品を米国政府は反共プロパガンダのために利用し、積極的に資金援助をしてきたという。『動物農場』はGHQによる占領下にある日本で「第一回翻訳許可書」として刊行された。さらに、アニメ映画版『動物農場』に、CIAが資金援助をしていたらしい。「情報戦」「心理戦」を主題化し問題化してきたオーウェルの作品自体が、「情報戦」「心理戦」に使われたのである。
 そういう経緯のあるオーウェルの作品が、今度は、資本主義で自由主義の国であるアメリカや日本のポスト・トゥルースの時代のメディアやネットや政治の状況を理解し、なおかつ政治権力などと戦うツールとして使われようとしている。元が寓話であるから多義的に読みうるものであるということは大前提であるとはいえ、このような書籍の置かれた位置の変化は、現状を理解するために重要な示唆を含んでいるように思われる。
 次回、現状を『一九八四年』と比較しながら論じた日本の作家の作品を紹介しながら、今の日本やアメリカがどのような状況になっているのかの考察を深めていくことにする。
(文芸評論家)
――つづく







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